宋常星『太上道徳経講義』(24ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー2)

爪先立って(跂)いては足を上がげることはできないし、大股で歩いた(跨)からといって目的地までの距離が縮まるわけではない。

爪先立っていれば安定していないので、足を挙げたりして動かすことができない。それが「跂」である。大股で歩くのが「跨」である。元々「自然」とは、全く意図的なものの入らないことをいうのであり、少しでもそうしたものが入ってしまえば、これを「自然」とすることはできない。ここに「爪先立って(跂)いては足を上がげることはできないし、大股で歩いた(跨)からといって目的地までの距離が縮まるわけではない」とあるのも当たり前のことを言っているだけであるが、世間の人を見ると、おかしなことを盲信していたり、誤った考え方にとらわれたりしていることが多い。間違いを正しいものと思い込んだり、邪なことをあえて行ったりもしている。それは大道自然の理を悟ることなく、正しく判断することができていないからである。つまりは「爪先立って(跂)いては足を上がげることはできないし、大股で歩いた(跨)からといって目的地までの距離が縮まるわけではない」ということに尽きるのである。ここではこうしたことを教えようとしている。


〈奥義伝開〉この部分は「這っている(跂)ものは立ち上がることはできないし、大股で歩いた(跨)からといって目的地までの距離が縮まるわけではない」と読まれるべきであろう。初めの「跂者不立」の「跂」を「爪先立つ」と解して、爪先立っていては足を挙げることはできない、あるいは立つことができない、とする解釈が多いが、宋常星は単に「立つ」だけであると爪先立っている状態も立っていることには変わりないので、それから足を挙げることが難しいとしている。ただここは合理的な考え方をいうところであるから「這っている(跂)ものは立ち上がることはできない」と読まれるべきである。つまり「立つ」には「這っている」状態を止めなければならないからで、「這う」ことと「立つ」ことは両立させることができない。この二つを共に行おうとすると「矛盾」が生じる。ここでは合理的な思考を巡らせることで見えてくる道理があることを老子は教えている。


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