宋常星『太上道徳経講義』(24ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(24ー1)

ここでは無私無欲が聖人の心で、(自分の判断で積極的に物事を行ったり考えたりする)有機有知は普通の人の心であるとする。聖人の「性(心の本質)」は太極至誠の理によっており、天地自然の用とひとつである。それはきわめて深く養われて安らかで、青空の中、雲が山の峰にかかっているよう(な清々しさでがある)。そのように聖人の意念は無為で、天とひとつになって、その行うべきを知っている。その心の清く澄んでいるのは、水に映る明月のよう。身心が自在であるのは、虚心で物に接するから。自分が先に立って、他人を後にすることはなく、道を体していて柔軟な対処をする。自尊を避けて、卑下につくのは何時ものことで、物的なレベルで争うことはない。それは物に執着がないからである。もし、これが普通の人であれば、どうやって欲を鎮めるかを知ることなく、名声を求めようとする気持ちも無くなってはいない。ただ人を蹴落としても自分が良ければよいとして、反省することもない。これらは有機有知で心を用いているからであり、たんなる自己肯定を求めるものに過ぎない。そうなれば自分が行ったことを誇る気持ちが、あらゆるところに顕現してしまうことになる。

この章では「自分の足で歩く」ことが述べられている。日常において自己を越えたことをしすぎないことが求められている。それは危険を回避するためでもある。通常の人は道の理に逆らって生きているし、義のないことを行う人ばかりである。


〈奥義伝開〉ここで老子は、合理的思考つまり「道」を得た自己と社会との関係を説いている。多くの人は慣習や先入観による「矛盾」をあたりまえと考えているが、それらのことも合理的思考により「矛盾」を見出し正しい理解が得られる。しかし、それをそのまま多くの人に語っても受け入れられないことが多い。静坐などの神秘行によって得られた知見が「オカルト」「秘教」として隠される所以(ゆえん)がここにある。老子は社会と個人との関わりについて四つの事例をあげている。そして最後にはまた諺を引いて、ここに述べたことが老子がかってに考えたものではなく、古代から伝えられて来た教えであることを示す。


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