宋常星『太上道徳経講義』(23ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(23ー7)

信ずることが足りないとは、信じないということである。

「信ずることが足りないとは」とあるのは、「上」に居る為政者のことで、「信じないということである」とは、「下」の民のことである。為政者がよく民を信じたならば、この信頼は天下に及ぶことになる。天下の民が、もし為政者を信じることがなかったならば、それはいまだ「道」「徳」「失」と一体ではないということになる。為政者も民も互いに欺き、そうなれば為政者は至誠を失い、誤った考えにとらわれ、知恵や技術で民を治めようとする。そうなれば民もまた知恵や技術でそれに応じようとする。民は為政者を信ずることなく、その顔色を見て動く。こうして為政者も民も互いに欺き合うことになる。そうなればどうして道と一体となることができるであろうか。そうなれば「自然」を語ることもできなく、人々が充分に信ずることができなくなる。それは信ずることが足りなくなるのであって、信じないということになる。老子は切にこれを戒めている。


〈奥義伝開〉最後に老子は「自然」とは合理的思考であるとする説明として信じることの足りない部分とは信じていない部分であると説明している。つまりあまり信じていない、という状態は「信じている」のと「信じていない」のとが混在している。あらゆることはこのように論理的、合理的なのである。これを易では「簡」「易」としている。人はあまりに単純であると「不安」を覚えて余計なものを足してしまう。それは不合理を生み、あらゆる矛盾が生じる原因となる。世の本当の姿、「自然」を知るにはこうした簡単な合理性、論理性を持っていれば良いわけである。


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