宋常星『太上道徳経講義』(23ー6)

 宋常星『太上道徳経講義』(23ー6)

道と一体となっていれば、道を楽しんで道を得ることができる。徳と一体となっていれば楽しんで徳を得ることができる。失うことと一体であれば、楽しんで失うことができる。

聖人は時に応じて生まれたままの気持ち(渾朴)で居ることがある。民も時に応じて、そうである。何もしないでいると時に応じて柔らかな気持ちになることがあるであろう。天下も同様で、日々安らかで何も気にすることがないのは、聖人と同様で道と同化しているのである。そうであるから「道と一体となっていれば、道を楽しんで道を得ることができる」とある。聖人は時に応じて人情に厚く誠実であるが、それは民においても違いはない。意図的なことをしなくても自然にそうした変化を知ることはできる。「天下」というものは小さなことにこだわることなく広い心を持っている。そうであるから人々は日々耕して食を摂るだけであり、それはまた聖人とその徳とひとつにしている。そうであるから「徳と一体となっていれば楽しんで徳を得ることができる」とあるのである。聖人は時に応じて衰える。世の中も衰える。そうなれば生まれたまま(渾朴)であったののが、知恵や巧みさ(知巧)を持つようになる。心の広い人も、自分のことだけを考えるようになるのである。そうなれば教えを施してその偏りを正さなければならない。法を立ててその罪を正さなければならなくなる。そうして民の心は為政者から離れてしまう。日々、礼儀や気持ちを正しくさせるような音楽によって人々を導いて行けば、日々にそれがあらゆることに浸透して行く様子を見ることができるであろう。本来的な善なる性が、また必ず回復されるであろう。為政者はそれを感じて、民はそれに応じる。そうして徳が回復されれば失っても最終的には失うことがない、ということになる。そうであるから「失うことと一体であれば、楽しんで失うことができる」としている。


〈奥義伝開〉ここでは「道」や「徳」「失」を得ることは楽しみであるとする。楽しさとは生命力が阻害されない状態において生じると老子は考える。そしてそうした状態を作り出すには合理的思考(道)によらなければならないのであり、それが実践(徳)されなければならない。そうした過程で阻害要因が無くなって行く(失)のも当然、楽しいことになる。


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