宋常星『太上道徳経講義』(23ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(23ー5)

つまり道に従って道となるのである。特に従って徳となるのである。失うことに従って失うこととなるのである。


「道」「徳」「失」は天地に虚が満ち無くなっていくことである。「道」も「徳」も「失」も同じで、国が治まったり乱れたり、発展したり荒廃したりするのは、そうした自然な道の働きによっている。昔の聖人は天に順じ、時に応じていた。時には盛んであり、時には衰え、物事を失ったり得たりしていた。これらは全ては道と違うことがなかった。そうであるから物事においても道に従い、道を持つべき時であれば道と一体となり、徳を持つべき時であれば徳と一体となっていた。また道を失い徳を失うべき時には、ただただそれらを失っていた。これが道と一体であるということである。例えば三皇(伏羲、女媧、神農)の時には、君臣父子、ことごとく道と一体であった。天の時はもちろん道と一体であるが、人に関する事においても道に応じて動いていたのである。そうであるから聖人はその時に順じて民を教化していたので民もまた道を失うことがなかった。まさにこれが道をして天下に従っているということである。天下において道に従わないものなどありはしない。そうであるから道は全存在そのものなのである。また五帝(黄帝、顓頊せんぎょく、帝嚳ていこく、帝堯ていぎょう、帝舜ていしゅん)の時には、君臣父子もよく徳を有していた。これもまた天の時が、そうさせていたのである。人にあってもまたそうであった。聖人もまたその時に応じて、徳をして民を教化しており、民もまたそれを徳として受け入れていた。まさにこれが徳をして天下を帰せしめていた時代である。天下にあっていまだ徳に帰することのないところはなかった。そうであるから「徳と〈一体」なのである。この世の初めからずっと、気運は衰えて続けており、君臣父子にあっても、道や徳は失われて続けて来た。これもまた天の時がそうさせているわけである。人においてもまたこうした天の時に応じている。それは聖人もまた天の時に応じている。法律や刑罰をして民を治めなければならないのであれば、そうしなければなるまい。これもまた民が天の時に応じ徳を失っているからである。そうして失うべきところが失われているのも、これもまた天の時に応じてそうなっているのである。


〈奥義伝開〉あらゆるものは滅んでしまう、ということを前提として、ここでは「事、道において従うは」として、生死だけではなく、身の回りのいろいろなことも全て「自然」であると述べられる。「道は道において同じ」「徳は徳において同じ」「失は失において同じ」を通常は自分が「道」や「徳」「失」と一体化することと読むが、そうではなかろう。これは「道は道において(自然と)同じ」と読まれなければならない。この世において生じる「道」「徳」「失」といった事象は全て「自然」の中でのことなのである。ここで急に自己を出すまでもなく冒頭で「自然」について述べると言っていると読めば、全体が「自然」の説明であるので、「同」じくするもの「自然」であるということになる。


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