宋常星『太上道徳経講義』(23ー2)
宋常星『太上道徳経講義』(23ー2)
言葉で語られないのが「自然」である。
天地を言わなくても、天地に道は存している。聖人は多くを語ることがないが、聖人は道を実践している。これらは全て自然ということの特徴とすべきところであろう。「言葉で語られない」というのは世間一般の言い方では言葉にしないということであり、言語化に執着しないということである。つまり「自然」をあえて言葉で表現するというのでもないし、しないということでもない。時によって必要に応じて適宜、適切に語られるということである。そうであるからこれを「自然」といっている。自然とは強いて為されないことであり、作られたものではない。そうであるからそれで煩うこともないし、迷わされることもない。その意味は無窮で、そうであるから「言葉で語られない」とされている。現在の人を見ると、ある時には語ることを好んで言語化するのを良しとするし、ある時には言葉で語るのには限界があるとする。そしてやたらにいい加減なことを言って、白いものを黒いと言ってみたり、良いことを悪いことのように言ってみたり、言行が一致していなかったり、事象と理屈が一致していなかったりする。そうなれば国を滅ぼし家を失うことにもなってしまうであろう。身を害して命を失うことにもなろう。これらは全て困惑して不自然なことを言ってしまったからである。充分に注意しなければならない。
〈奥義伝開〉冒頭の「希言自然」を一般的には「希言は自然なり」とする。通常「希言」は聞こうとしても聞くことができなず、言おうとしても言うことのできない「言葉」であるとされている。それが「自然」であるというのであるが、それでは意味が全く分からない。この部分は「希(こいねがわ)くば自然を言わん」と読みたい。自然ということをここに述べてみよう、ということである。そしてそれは「道」であり「徳」であり「失」であることが後に示されている。老子の語ることはひじょうに論理的、合理的であり、曖昧な神秘的なものであるとの先入観をもって読むと全く価値を減じてしまう。