宋常星『太上道徳経講義』(22ー4)
宋常星『太上道徳経講義』(22ー4)
自分で見ようとしないからよく明らかにできる(明)。自分で決めつけないので明確である(彰)。自分で行わないので功績となる(功)。自分で維持しようとしないので長持ちをする(長)。これらはただ争わないということである。そうであるから天下にあっても争いというものは存することができないわけである。
天下の人には、自分で見たり、決めつけたり、行ったり、維持しようとしたりする気持ちがあるので、「抱一の道」を得ることができないのである。切に思うのは自分で見るのは自分で見ることのできる範囲であって、他人の見ている範囲をまでも見ることはできない、ということである。つまり全てを見ることはできないのであるから、全てを明らかにすることもできないわけである。聖人は自分では見ようとはしない。あるがままを眺めるだけである。そのままで自分の意図を入れることがない。そうであるから物事の究極の理を究めることができる。表面的には移り変わって行くものの究極のところの「理」を知ることができる。上においてはよく天の動きを知り、下にあってはよく地の様相を見ることができ、中にあってはよく人や物の「理」を知ることができる。古今の変化、秩序を明らかにし、あの世とこの世の微妙なあり方をよく知ることができる。これは聖人が意図して見ようとすることがないために知ることのできる奥深い「理」であり、こうしたことを知ることのできるのを「真見」と称する。こうした「真見」であれば本当の「理」を明らかにすることができる。ここにある「自分で見ようとしないからよく明らかにできる」とはこういった意味である。自分で決めつけるとは、この決めつけが自分から発せられているわけで、それは必ずしも他人の認めるところではない。そうであるからこうした決めつけによっては最終的な明確さは得られない。明確さとは物事を明らかにするということである。そうであるから聖人は自分で決めつけるようなことはしない。物に応じてそれを明らかにするのであり、事に応じて明らかにする。それは理によって明らかにすることであり、道によって明らかにすることでもある。つまるところ明らかにするとは、道を明らかにするということである。徳を明らかにするということである。理を明らかにするということである。性(人の本来的な心の働き)を明らかにするということである。天を明らかにするということである。人を明らかにするということである。こうしたことは鬼神であっても変えることはできない。また聖人でも同様である。つまり自分の分かる範囲での決めつけをしないので、ものごとをよく明らかにすることができるわけである。天下の人は皆、自分で行ったことが、功績となり名誉となることを知っている。自分で行うとは、自らの才能を見せびらかすことであるが、自分で行って名誉を求めるということが、本来的にはできないことであるのを知りはしない。他人が他の人の才能を認めることはないからである。そうであるから聖人は自分で行って成功を得ようなどとはしない。自分の才能を見せびらかさなくても自ずから成功をしてしまうからのである。またかえってそうしたものを見せないようにもしている。どうして自分であえて行う必要があるであろうか。聖人は自分で行わなおうとしないので、その功績は聖人個人ではなく天下に帰することになる。そうなると天下においてその成功が認められることになって、結局はその「功績」は聖人に帰してしまうことになるわけである。そのため「自分で行わないので功績となる」とされている。天下の人は皆、維持しようと努めれば長持ちをさせることができると知っている。あるいはそうしたことができる自分が優れていると思い、それで良いと考えている。ただ自分より優れた者に対して自分の長所や短所が、どれ程の意味を持つであろうか。聖人は自分の長所や短所を気にすることはない。どうこうしようとする心も無い。そうして自分の優れたところを考えることもないし、天下の人をそうしたところをして服させようとすることもない。そうであるから聡明さや知恵で及ばなくても、聞いたり見たり、感じたり、思ったりすることが足りなくても、そうした短所が自ずから長所となる。こうなると実際の長所が天下に実現されないということはなくなり、その功績は天下に必ず明らかとなる。そうであるから「自分で維持しようとしないので長持ちをする」とあるのである。こららの文章を詳細に考えると自分では見ないし、決めつけないし、行わないし、維持しようともしない。これらには全て争わないということの特徴がある。聖人と天地は一体であり、聖人と万物とは一身である。不完全であるものを捨てることはなく、愛育して見放さない。ここにどうして争いがあるであろうか。そして天下の人は、聖人とその徳を一体としており、その心も一つである。教えを聞けば誠の大切さも分かるし、徳に出逢えば心が喜ぶのであり、まったく争いを好むようなことはない。そうであるから「これらはただ争わないということである。そうであるから天下にあっても争いというものは存することができないわけである」としている。天下に争う者が居なくなれば、君臣、父子、尊い人も卑しい人も、上の人も下の人も、すべてに「理」は通じているので争うことのない「理」も共に通じている。ここでの「理」とは、つまり聖人は「一」を抱くという天下の方式のことで、この章ではこうしたことをのべられている。
〈奥義伝開〉一般的にはここに示したように「不自見故明」を「自(みずか)らは見ざる故に明らかなり」として、自分で意図的に見ることが無いので物事の本質を明らかに知ることができる、と解するが、正しくはここで老子は合理的な思考から進んで弁証法的な考え方を解こうとしていると見るべきである。つまり「見ることに自(よ)らざる故に明らかなり」と読むのであり、「見る」「見ない」の一方に偏らないことで知ることができる、とするわけである。物事は正しいことを見れば真実が明らかになるが、正しくないことは見ないことで本質を明らかにすることができる。これは是非でも同じで良いとすること(是)と、悪いとすること(非)は対立しているようであるが、どちら物事の細部を知る(彰)ということにおいては等しく重要である。これも正しいとされることだけを見たのでは、物事のディテールはわからない。正しくないことも知らなければならない。物事を為す(功)には積極的に行うこと(伐)も、行わないで協力してもっらったことも等しく含まれている。長く保つためには、慎む(矜)ことも必要であるが、積極的に動くことも欠くことはできない。慎む、慎まないは、長く保つという認識を得ることで対立ではなく統合される。それを老子は争わないといっている。弁証法はあらゆるところで使える考え方なので、それからすれば人々が争っている現状はまったく天下の道理つまり「道」と「理」から外れたものといえるわけである。