宋常星『太上道徳経講義』(21ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(21ー3)

道が物となって現れるのは、ただ恍であり惚である意識の中からである。恍や惚といった意識の中ににシンボル(象)が生まれる。恍や惚といった意識の中に(生まれたシンボルによって)物が生み出される。

ここで述べられているのは、道がどのようにして物としての形を持つか、である。それは道の中に「物」が含まれているかというと、そうではない。また道には何ら「物」となるものがないかというとそうとも言い切れない。道の中に「物」が有るとは言い切れないのは、無の中から有が生まれるという不可思議がここにあるためである。無いとも言い切れないのは、無の中から生まれる有は、完全な意味での有ではない、不確かな存在でしかないからで、これが「恍」であり「惚」であるとされている。こうした微妙な表現は有と無の狭間で「物」が顕現していることを示している。またそれは何らかのシンボル(象)であるともいえる。確固としたシンボルを求めても、それでは捉え切れるものではない。「物」それ自体は存在しているのであるから、それを求めようとしても、「物」それ自体を道の中に得ることはできない。つまり道の中には決まった形としての「物」があるわけではないし、一定の形をもった「物」が存しているのでもない。そうであるから「道が物となって現れるのは、ただ恍であり惚である意識の中からである。恍や惚といった意識の中ににシンボル(象)が生まれる。恍や惚といった意識の中に(生まれたシンボルによって)物が生まれる」とされている。ここでの「物」という字は、実際の「物」を指しているともいえるし、そうでないということもできる。つまり「物」とは万物ということでもあるのであって、個々の「物」をいっているわけではない。人の心が虚霊となった状態は言葉で表現することは難しい。こうした状態は、どのような存在(物)として「物」をとらえるのであろうか。心が虚霊であれば、この世のあらゆる物的存在をそこに有することができる。そうであれば虚霊にはすべての「物」が存していることになる。もし虚霊についての真伝を得ることができたならば、外的な「物」の存在に迷うことなく、内的な「物」の存在にとらわれることもない。それは虚をして虚を合わせることであり、無の中に有を生むこと、無象の中に自然に有象を得ること、無物である中に自然に有物となることなのである。つまりここでの「物」とは白かったり、青かったりするような物ではなく、意識(神)をして捉えた「物」であり、これを言い表すことは難しい。


〈奥義伝開〉「新たな認識」が得られる時としては、ひとつに意識が高揚している時がある。いくらでもアイデアが湧き出てくるような時である。これを「恍」「惚」とする。「恍」も「惚」も意味としては「ほのか」であることであるから、これはいまだ言葉に出来ないような思いつきであり、これが「象」とされる。「象」という言語化されないイメージ、シンボルのレベルの認識を言語化したのが「物」である。ここで「新たな認識」は、はっきりとした形を得ることになる。


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