宋常星『太上道徳経講義』(16ー8)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー8)

受け入れることができる(容)のは他に対して閉じていない立場にある(公)からである。

「性」は天地と同じである。「徳」は鬼神と一体である。「心」によれば万物を認識することができる。「性」の本体は無欲であり無為であって、何事にもこだわることがなく(端然)て清浄でもあり、天下を自分自身のように見ている。万物を自分と一体として見て、特定のものに執着することがないし、特定のものを嫌うこともない。物に執着したり、物によって自分の価値を考えることもない。まったく偏った思いを持つことがないのであり、広い心を持っていて小さな自分の考えにとらわれることもない。そうした人は、広く閉じていない立場にある(大公)といえるであろう。ここでは以上のようなことが述べられいる。


〈奥義伝開〉太極・陰陽観は、あらゆるものを受け入れることができる。そうした考え方を老子は「公」と称する。これは「私」に対する語で、あらゆるところに開かれている開放システムをいっている。「私」は「男=陽」か「女=陰」であり、こうした陽や陰の一方に偏するのは「私」であり、陰陽が共にあるのが「公」なのである。老子は太極・陰陽観が「常」なるものであり「公」なるものであるとする。いうならば時間的に開放システムであることを「常」として、空間的な開放システムであることを「公」という語で表現しているのである。つまり太極・陰陽観は時間、空間にわたって普遍的なシステム観であると老子は考えていたのである。


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