宋常星『太上道徳経講義』(16ー7)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー7)

「常」を知れば何でも受け入れる(容)ことができる。

「常」とは天地に先立つものであり、始まりを持たない。天地の最後にあるものであり、終わりを持つことがない。つまりそれは変化をしないのである。滅び終わることがないのである。はたしてどれくらいの人がこのことを知っているであろうか。天地は大きいといっても、それは我々の「認識(性)」の範囲の中において捉えられ得るものでしかない。鬼神はあるかないか分からないような存在であるが、我々が感応しようとしてできないものではない。万物は多いといっても、我々の生活の中にしか存しないものである。こうしたことが分かれば、太虚と一体となって、あらゆるものを受け入れることができるようになる。どんなものでも自分のものとすることができるのであり、それを「『常』を知れば何でも受け入れる(容)ことができる」としているのである。


〈奥義伝開〉あらゆる存在は我々の認識の中にある、と老子は教えている。認識できないものは例えそれが存在していても、我々はそれを知ることができないのであるから無いのと同じであろう。「常」とは太極・陰陽の世界観のことで、こうした世界観が永遠普遍のものであると老子は考えていた。あらゆる存在はこの太極・陰陽の世界の中から出るものではないと考えていたのである。そうであるから絶対神のようなものは、我々が認識できないのであるから無いとして良いということになる。我々が生きているのはあくまで相対的な世界、太極・陰陽の世界なのであるからそれ以上のことは考えても仕方がないわけである。


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