宋常星『太上道徳経講義』(16ー4)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー4)

命に復することを「常」という。

「天命を完全に備えている」ことは「復」することによってなされる。先の文では太極の働きについて述べていた。つまり「命」の働きをいっていたわけである。万物がもし「命」に「復」する(本来の生命活動そのままとなる)ことがなければ、そこに太極の理を完全に備えることはできない。太極の理が完全に備わっていなければ、けっして「命」の根が安定することもない。人が若くして亡くなるのは、その通常は有している「命」の根を失ったからであり、「命」を保つことができなくなったからに他ならない。これを接ぎ木をする二人に例えてみよう。その一人は唐梨(からなし)の木の枝を折って、これを山梨(やまなし)に接いだとすればそれは接ぐことができるであろう。唐梨も山梨も同じ梨の木であるからである。そうであるから継ぐことができる。またもう一人が唐梨の枝を折って、棗(なつめ)の木に接いだとしたら、それは接ぐことができない。どうして接ぐことができないのか。それは梨と棗は別の木であるからに他ならない。まったく違うものであり、類を同じくしてないものはどうしてもひとつにすることができようか。つまり「帰根復命」の道も(その「根」や「命」はどこか自分より他のところにあるのではなく自分自身の内に帰り復するのであることは)明らかである。


〈奥義伝開〉本来の生命活動に戻ることを「命」に復するという。一方、「性」は人が本来有している精神活動のことで、これも後天的な欲望などによって働きが本来のものから外れていれば、これも復することが必要となる。ここには「人は本来完全である」とする見方がある。そうであるから神仏の助けを必要とすることなく自分の努力によってあるべき状態になることができると老子は教えている。それはまた自分で何かをやらなければ何も改善されないということでもあるが、その「やるべきこと」は自ずから決まっている。自ずから現れて来るとされる。それを知るには自らは「静」で居てよく観察をしなければならない。そうして見えてきたものを実践するのが「無為」の行となる。


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