宋常星『太上道徳経講義』(16ー3)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー3)

物質は絶えることなく生み出されており、あらゆるものが存在の根源から生まれている。存在の根源に帰るには「静」でなければならないとされる。つまり「静」であることにより「命の根源に復する」ことができるのである。

ここでは、天地には「虚」や「静」へと返る(自然の)働き(復返虚静)があることが述べられている。そうであるなら万物においてもこうした働きがあるのは当然のことである。万物は、それぞれが違った形をしているが、それぞれにおいてその生まれる働きは絶えることがない。あらゆる生成は「無」によっている。あらゆる存在はその「根」に帰することになる。「根」とは生成の根源である。物があるのは「根」があるからに他ならない。「根」に帰するとは、つまり「根」である「虚」や「静」に帰することなのである。「虚」や「静」にあらゆるものが帰するとは、あらゆるものが等しくその「命」に復するということでもある。「命」はあらゆるものに働いてる「太極」のことである。万物の帰する「根」とは、万物が「静」に帰するということでもある。もし万物が「静」に帰することがなければ、(生成の働きも無くなるので)「命」に復することもできないことになる。「命」に復するとは「生命力の復活(一陽来復)」ということでもある。こうしたことを「存在の根源に帰るのは『静』でなければならないとされる。つまり『静』であることにより『命の根源に復する』ことができるのである」と述べているのである。「帰根復命」の意味を細かに考えれば、本来的には万物を育てる「太極」の働きということに尽きよう。育てることができるのは、気が集まるからである。気が集まれば「静」に復することになる。「静」であれば、よく「動」くことができる。「動」けば形を持つものが交わる。形あるものが交われば、気が復する(新しい生命が生まれる)ことになる。気が働くようになれば、人も物も生まれ出る。こうしたところからすれば、万物は「静」によってこそ「動」くことが可能となることが理解されよう。そうして「動」けばまた「静」へと返る。こうした(生死の)循環が続いているのであるが、これらはすべて「虚」や「静」の霊妙な働きによっている。そうであるから「帰根」とはつまりは「復命」のことなのであり、太極の根本において形を受けることなのである。「復命」とはつまり「帰根」であり、太極に本来に備わるものでもある。万物生成の理は、まさにここにある。道を学ぶ者ははたしてよく「帰根復命」をすることができるであろうか。大道を得ることができるであろうか。杏林真人は「神、気が根に帰するのは、心身が命に復する時である」と述べている。これは本当に奥深い教えであり、ここで述べられているのもこうしたことに他ならない。


〈奥義伝開〉生命活動は「動」であるが、その根源には「静」があるとする。つまり生きること(動)はつまりは死ぬこと(静)と一体であるという考えが老子にはあるわけである。こうした自然観が老子の世界観の基調となっている。これは「陰陽」や「太極」として認識される世界観と同じで中国では普遍的に見られるものである。一方、日本では芽吹く様子が生成の根源として認識されたようで「牙(かび=芽のこと)」のような「尖ったもの」にエネルギーが集まって生成が始まると考えていた。これは「鉾」でオノコロ島が生み出されるという神話にもつながって来る。ここには中国に見られるような相対的な視点はない。


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