宋常星『太上道徳経講義』(16ー2)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー2)

虚の極みに達して、静をよく得てそれを離れることがない。(そうすることで自らは)万物と一体となって、自らもその本来の形に復するのを観察する。

「達して」とは存在の究極に至ることである。それは全くの「空」であり、なんらの形も存することがない。つまり「虚」なのである。「虚」であって、その「極」みに達しているので「極みに達して」とする。そうした感覚がこの身に常に存していることを「離れることがない(守)」という。「静」とは寂然不動であることで、それによって「虚」「一」を深く体現し得ていることを「静をよく得ている」とする。「虚」を得るのは天の道であり、「静」を守るのは地の道である。天の道がもし「虚」でなければ、存在の究極において、万物の存在の成り立つことはない。地の道がもし「静」でなければ、その究極の存在において、万物の生まれることはない。ここに万物の生まれることがないのは、「虚」が万物の造化の中核であるからである。「静」もあらゆる存在の根本である。天地に「虚」や「静」があるので、日月星辰は天にあることができているのであり、水火土石は地において形をなしているわけである。日月星辰が天にあることで、(全体のバランスが保たれて)地において万物が生まれる。物質存在が地にあって交わることで、万物が生まれる。つまり「虚」や「静」の霊妙な働きを受けていないものなどないのである。存在において「虚」や「静」と関係していなければ「出入」「陰陽」「昇降」「造化」といったものも存することがない。つまり万物が存在しているのは、全て「虚」や「静」の霊妙な働きによっているのである。しかし、これを(一方的に)「有」としてとらえるべきではないし、「無」とするべきでもない。「有」ではあるが「有」に限るものではない。「有」の一方に限ってしまえば「陰陽」は成り立たない。「無」であるが「無」に限るものでもない。それは、あらゆる存在と一体なのである。こうした「無」を知ろうとするならば、それはそこに「有」を見なければならないであろう。もし「復する」ということを知ろうとするならば、この「復」とは「命に復して根に帰する」ということになる。万物の始まりと終わり。陰陽の働き、冬至の月、これらは一年の「復」である。夜の「静」は子の刻(午前零時)に極まる。これはまた一日の「復」である。喜怒哀楽のいまだ発していない時、これはつまりは人における「復」である。こうした「復」を知ることはつまりは「虚」や「静」の理を得るということでもある。ここに「虚の極みに達して」とあるのは、天地が区別をもって認識されないということである。万物が自分の一身とひとつの存在として認識するということである。自己の「意識(神)」は、天地とその存在を等しくしている。自分と天地が一体となっているとは、自らの「復」を意識するということでもある。修行をする人は、こうした「虚」の極地に至ることができるであろうか。それは自らの「静」を篤く守ることで、天地と一体となれるのである。万物と我が身が一体となった時、自らの「神」も、天地と等しいものとなる。自分の「気」も万物と等しいものとなる。陰陽の働きは、自らの中にあり、そこに大道が行われていることが実感される。これは「本に返り静に復する(返本復静)」ことであり、ここから「道」の奥義へと入ることができるのである。


〈奥義伝開〉老子は静坐において具体的には「静」を実践することを教えている。「静」を実践すれば自ずから「虚」の認識が得られる。「虚」においてはあらゆる存在が形を持たないので、個々の区別は無くなってしまう。つまり天と地の区別もなく、自分と万物の区別も存しなくなる。こうした静坐の実践は実際はただ坐っているだけである。多くの修行法では「ただ坐っているだけ」では長く修行を続けて行くことが難しいのでいろいろなテクニックを開発したが、そうしたものは老子の静坐ではかえって迂遠なる道(回り道)となる。またこれは「易」で説かれる「単純(簡)」にして「容易(易)」なる道でもある。


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