宋常星『太上道徳経講義』(16ー1)

 宋常星『太上道徳経講義』(16ー1)

この章では「根に帰り命に復する」という教えについて述べられている。これはつまりは「道」の根本となるものであり、修行の正道でもある。これに含まれる深い意味としては、つまりこれは「天地の運行は、天地はそれを知ってはいない」ということであり、「鬼神の変化は、鬼神はそれがどうなるかを予め分かって行っているわけではない」ということとなる。古にも存しておらず、今もない。生ずることもなく、滅することもない。こうしたすべてのことが「道」の根本となっている。聖なるものは真なるものである。これもまた「道」の根本である。天地にあっては、つまり「道」は天地の性命である。万物にあっては「道」は万物の性命である。鬼神にあっては、「道」は鬼神の性命である。(生成の根源としての)「帝」なるシンボルの先にあるものであり、あらゆる教えの奥義はここに起因している(衆妙の門)。すべてのことは「道」によっているのであり、日常のことにおいてもそれから外れるものはない。自分に関係する全てのことは「道」によっている。修行をしている人は、よく「意」は浄(きよ)らかで、「心」は空であることができているであろうか。悟りを得れば自然とそうしたものを得ることができる。こうしたことはことさらにここで述べられていないが、隠された教えとして読み取ることができるものである。


この章の眼目は「根に帰り命に復する」にある。天地、陰陽、三才、万物は、全て「太極」の変化である。「太極」とは造化の働きであり、あらゆるものの根底でもある。まさに「道」の根本はここにあるといえよう。


〈奥義伝開〉この章では静坐の実質的な秘訣である「虚」と「静」について述べられている。「虚」と「静」は同じ感覚を別の言葉で表現したものに過ぎない。老子はこうした感覚があらゆる存在の生成の根源にあるとして、これを「命(生成)」の「根(根源)」であるとする。ただこうしたものが本当に万物の生成の根源にあるかどうかは分からない。しかし老子が静坐において「虚」や「静」の感覚をそうしたものとして受け取っていたことはここに述べらていることからしても明確であろう。


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