宋常星『太上道徳経講義』(15ー12)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー12)

この道を保とうとするのであれば、完成を求めてはならない。ただ完成をさえ求めなければ、新たな弊害の生まれることもない。


ここで「道」とあるのは、この章の核心がここで述べられていることを示しているのであり、ただ単にこれまで述べてきたことの続きで、この一節が出されているのではないことを表すものである。古の修行者は「道」の奥義に通じていることを「玄通」といったが、それは「虚心」が開かれているということでもある。「虚心」が開かれているから「道」の奥義にまでよく通じる(玄通)ことができている。心を「虚」にして川を渡り、心を「虚」にして周りを恐れ、心を「虚」にして賓客を迎える。心が「虚」であれば、それは氷が溶けるような自由が得られるのであり、生まれたままのように生き生きとしており、谷のように全てを受け入れることもできるが、これは清濁を区別しないということもでもある。これらは全て「虚心」ということを表している。そこには「完成」ということはないのであり「虚心」にあっては「完成」して終わるということがない。これが大道の奥義である。つまりあえて「完成」しないことで、かえって自在でいることができるのであるし、行くことも退くことも思いのままとなる。また「弊害」の生まれる道理を知って、けっしてあえて新しいことをしようとはしない。「弊害」とは「失敗」につながるものである。「遺棄」すべきものでもある。つまり「道」を守るということは「弊害」を「遺棄」するということでもあるのである。また、その才能を隠して行為へのこだわりを持つことがない。「虚心」であれば自然にそうなる。こうしたことを「新たな弊害の生まれることはない」としている。もしこれから何かを始めて功名が得られるとしても、あるいは栄誉が得られるとしても、それらは全て「新た」になされることである。ここで述べられていることからすれば「道」を保つには「完成」を求めてはならないことになる。つまり、絶対に新たに何かを行って「完成」という終わりを求めようとしてはならないのである。そうでなければ「新たな弊害の生まれることはない」ということにはならない。新しいことをしようと思って「弊害」を生み出してしまうのは、人情の常でもある。だいたいにおいて人は新しいことを争って始めようとするものである。そして「完成」にこだわり、強い執着を持つが、それは常に長く続けることのできる「道」ではない。またこうした中で生まれる「弊害」は、人をして醜くさせ、楽しくさを奪ってしまう。花が終わって実がなる。奢りを捨てて恭(つつしみ)が得られる。深くこうした大道の奥義としての理を得て、深く大道に玄通してそれと共に生きることが大切なのである。


〈奥義伝開〉老子は「完成」「完結」は自由を失う「弊害」の生まれる元と考える。これは「易」の最後が「未済」で終わっているのと同様で、「いまだ済(す)まず」であるから次への展開があると考えるわけである。先の濁った水の例えでも、ただ静かにしていれば良いというのは、完璧な浄化ではない。つまり「未済」の状態にあるわけである。それは陰と陽が併存することが絶対的な条件としてこの世にある(大道)という考え方が前提となる。生まれれば亡くなるし、上がったものはいつかは下がる。そうであるから物事の完成を表す「既済(既に済む)」は、たとえば「生」や「上」などの一方をのみ認めるものであるから真の意味での完成ではなく、見せかけの完成であるとされる。「易経」の「既済」にも「初めは吉。終わりは乱る」とあって、これが真の完成ではないことを示している。武術であれば少林拳ではあらゆる人体における武術的な能力の開発法が研究され尽くされ「完成」と考えられた(初めは吉)が、それがかえって人体への悪い影響を与えることが分かってきて(終わりは乱る)、最終的には太極拳のようなものになった。太極拳は格闘術としては不十分なところがあるように見えるかもしれないが、それこそが本当の意味で欠けることのない「格闘術」であることを中国の人は長い歴史の中で悟ったのである。


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