道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(12)

 道徳武芸研究 柔道、剣道と坐禅〜身体的な要求とシステム〜(12)

なぜ日本においては武術技法の抽象化の現象が見られなかったのか。ただまったく日本では抽象化が生まれなかったのかというとそうでもない。それは居合において生じていた。居合が剣術と柔術をつなぐ「曖昧な」一人形のシステムとなって行ったわけである。本来、居合は「抜刀術」であり、長い太刀を如何に早く抜くか、という問題を解決しようとして考案された。中国でも倭寇の使う武術があまりに優れているために倭寇(日本人)が使う太刀を使おうとして套路も考案された(苗刀)が、その場合、刀を抜くには一旦、腕の長さまで抜いて、更に刀を持ち直して完全に抜く、という形になっている。この時には刃の部分に触れることになるので危険でもあるし、すぐに抜刀をすることもできない。日本では近世あたりからは腕の長さくらいの刀がほとんどになるので、抜刀術は実質的には必要のないものとなるが、一方で対柔術(抜刀できないように腕を抑えられた時に対応するための技)であるとか鍛錬法として発展することになる。鍛錬法としての居合の有する特徴は「座ってからの抜刀」がそれである。剣術の形を見れば分かるように剣術は立った状態で対するのが普通であるので、座った状態での抜刀をわざわざ稽古することはないのであるが、刀を抜くことそれ自体の意味を失った抜刀術が居合術として心身の鍛錬という新たな道が模索される中で剣術においての存在意義を獲得して、本来は居合をしていなかった新陰流などにも制剛流の居合が取り入れらることになるのである。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)