宋常星『太上道徳経講義』(15ー11)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー11)

どうやれば濁りを止めることができるであろうか。それは静かにして徐々に清らかになるのを待つのである。どうして長く安らかにしていて(新たな)動きが徐々に生まれて来ないなどということがあるであろうか。


これは前に述べたことを更に明らかにしようとしている。「混じりあっている(渾)」とは、迷いの中にある人たちの中に共にいて、それはあたかも混濁の中に共にあるような状態に居ることなのであるが、古の善を実践する修行者の心は常に「清」や「静」から離れることはなかったのである。そうであるから「渾」や「濁」は、善を実践していた修行者にあっては心を用いた時にそう見えるというだけのことといえる。人の情は「善清」だけではない。「悪濁」でもある。もし「清」を知ることがなければ「情」を浄化することなどできはしない。「静」が久しければ、情の「濁」りは自然に「清」くなる。人の情にあっては、心を「安」らかにしていれば「清」への「動」きを得ることは簡単である。しかし、多くの人は混濁した心の働いている「動」にあって、浄化への「動」を得ようとして、それが不可能であることを知らない。心が「安」らかであること久しければ浄化への「動」は自然に生まれて来る。そうであるから善を行う修行者は、必ずしも「清」を求めることはない。もし心が「濁」っていても、そのままにして久しく居れば、心は自ずから「清」らかになることを知っているのである。人と共に居ても、あえて自分との違いを際立たせることはなく、一般の人と同じく居て、その「長」を示すこともない。自分はただ「静」にあるだけである。そうするだけで自然に徐々に「清」らかさは生じて来る。けっしてむやみに他人と清濁を区別するうようなことに「動」くことなく、「安」らかに久しくただあるだけなのである。そうであるから他人と自分との違いが目立つようなことは無い。そうであるから普通にしていても、自然にその浄化の働きが生じて自らの「長」が示されることとなる。そうなると、自分の足りないところも補われる。それは自分はただ「安」らかにしていて自らを養っていれば、自然に徐々に浄化への「動」きが生じるからである。これが「濁りにあって清らかさの生まれる」時を知るということである。「安」らかであれば「動」きが生まれる。それは動静・陰陽が循環しているからでもある。人の心の根本と働きは、自然であれば良い。自然であれば本来の働きが失われることはない。そうであるから「空」であり、「安」らかに居れば、「静」となって徐々に「清」らかな働きが生まれるのである。つまり「安」らかであることが久しければ、浄化へんの「動」が徐々に生まれて来るのである。


〈奥義伝開〉濁った水は薬を投入したり、網でゴミを取ったりする必要はない。ただ静かに待っていれば、自ずから清らかになる、とするのが老子の考え方である。ただこれでは「清」と「濁」が分離しただけで本来の浄化になっていない、と我々は考えてしまうが、あえてそうしないのが、老子の考え方であって、それは東洋的な思考形態でもある。ためにキリスト教では「異端」が、生まれたが仏教や道教、儒教などでは異端とされるものは存しない。確かに仏教であれば大乗仏教や儒教の宋学(新儒教、朱子学)などは「異端」といえば異端であるが、中国てはそうした評価が生まれることはなく、ただ「強調点の違い」と認識されていた。つまり「清」と「濁」は本来、混在していて、一方からすれば我が方が「清」であると考えるし、他方は自分たちが「清」にあると見なしている。ただ共に「清」と「濁」があるのは認めているので、相手の存在を全く否定しようともしないのである。現代の我々は知らず知らずのうちに西洋的な「異端」にこだわるような考え方に馴染んでいるが、東洋的な曖昧の知恵を見直しても良いのではなかろうか。


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