宋常星『太上道徳経講義』(15ー10)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー10)

それは「混じりあっている(渾)」のであり、あたかも濁っているかのようでもある。


これは和光同塵のことを、強いて形容している。古の善を実践した修行者は、心は虚明であり、本来の心の状態である「性」は明らかな悟りを得ていた。訳のわからないところに迷い込むことはなく、生き方において正しさを失うことはなかった。そうであるが、外には「聖」なるものを見せることなく、あくまで平凡にしていて、その「光」を表すことはなかった。親しい人でも、疎遠な人であっても変わりなく対して違いのあることがなかった。民が憂えれば自分も憂え、民が喜べば自分も喜ぶ。その全く「混じりあっている(渾)」様子は、民と一体であるかのようにも見えた。そうであるから善を行う修行者も、一般の人たちも違いがないように見られたのである。こうしたことを「混じりあっている(渾)のは、あたかも迷いの中にいる人たちと混じって、共に混濁の中にあるかのよう」とされている。


〈奥義伝開〉老子は、愚かな人は「道」の教えを聞くと笑い出す(第四十一章)と述べている。「道」とはあるいは当たり前のことであるから、それをありがたく思わないし、あるいは常識を逸脱するものであることもあるから、そうなると取るに足りない、と思ってしまうのであろう。老子はさらに愚かな人々が笑わないようでは「道」とするには足りない、とまで言っている。こうした言い方は神秘主義者によくある「知の優越」の現れでもあるが、神秘主義は、もともと通俗の知をこえるためにあるのであるから、こうした感覚の生まれるのは当然といえば当然でもある。よく老子は「負けるが勝ち」のような敗北主義的な立場の人と誤解されているが、そうではない。老子の思考の背景には自らが「知の接待的な優越者」としての自信があることを忘れてはならない。


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