宋常星『太上道徳経講義』(15ー9)

 宋常星『太上道徳経講義』(15ー9)

それは「むなしい(曠)」のであり、あたかも「谷」のようである。


これは空間があってものを入れることのできるところであることを、強いて形容している。古の善を実践した修行者は、心の徳は虚であり、それは「これ」として特定できるものではないことを知っていた。人の本来の心のあり方である「性」は、基本的には「空」であって、特定のものとして存在してはいない。つまり「虚」であり、非存在なのである。こうしたものであるから事に応じて働いても、それが窮まるということがない。空であり非存在であるので、あらゆるものを受け入れる。それは大きな空間を持つ谷のようでもある。気がここに入っても、みつることはなく、気が出て行っても涸れることもない。すべては「空」なのであって、太虚が形として存在しないのと同じである。昔から今に至るまで、太虚は一定の形を持つことなく万物と一体となっている。それは「むなしい(曠)」ようでもあるし「むなしい(曠)」ことのないようでもある。あらゆるものを受け入れる「谷」のようでもあるし、まったくそうしたものに関わらないようでもある。太虚にあって、その「むなしい(曠)」ことの実際は知ることができないし、「谷」がどのようであるのかも分からない。そうしたことを「むなしい(曠)のは谷のようである」としているのである。


〈奥義伝開〉心が虚であることを「谷」のイメージで表現しようとする。老子は大道を「谷神」とも言っている(第十六章)。日本でもこうした「谷」のような地形は「やと(谷戸)」といって特殊な地域と考えられていた。そこには「やと神」が住むとされていて「常陸国風土記」には「夜刀神(やとのかみ)」が居たと記してある。またこれを蛇神であるともしている。森閑とした静寂の中に潜む生き物の気配、そうした雰囲気の中に太古の人たちは生命力の不思議を感じたのであろうし、また静坐においても静寂の中で開かれる生命力を「谷」のイメージとしてとらえたのであろう。これを中国的にいえば「静が極まって動が生じる」ということになろうし、ヨーガであれば「ムラダーラ・チャクラに眠るクンダリニー・シャクティが覚醒する」と表現できるものでもあろう。ここで重要なことは「虚」つまり「静」をよく極めることである。


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