宋常星『太上道徳経講義』(11ー5)

 宋常星『太上道徳経講義』(11ー5)

故にこれ有るをもって利と為し、これ無きをもって用となす。

「有」とは先に述べられた「車(車輪)」「器」「室」の三つのことである。実際に形有る物からは「利」益を得ることができる。それは形が有している絶妙な働きといえるのかもしれない。そうであるから「利」という言葉がここに用いられている。「無」とは「車」「器」「室」の中にある空間であり、虚であり、物の無いところであって、これは「用」を持っている。つまりこれら三つには妙用があるわけである。「車」「器」「室」について考えるに、これらは同じ物ではない。しかし同じであるのはそれらにはすべて「無」が含まれているということである。その「利」は「有」に発し、その「用」は「無」から得られている。つまり虚がどのようにして有に作用しているのかについては見ることはできない。それは実際に車輪を動かしたり、器に物を入れたり、部屋に出入りできたりするその「用」が虚(無)によるものであって、その「利」をもたらしている形に無いからに他ならない。つまり「妙用の用」は単に見てすぐにわかるようなものではないのである。もし「用」を見ようとするなら、それは「無」によらなければならない。「利」も「用」も「車」「器」「室」において天下万世にわたり人々を「利」してきたこと窮まりないものがある。そうであるから老子はこの三つをして「道」を説こうとしている。結局のところ「つまり有からは利をもたらすことができる。無からは用を得ることができる(故にこれ有るをもって利と為し、これ無きをもって用となす)」というのは、これをして老子は道を教えようとしているのである。さらに詳しく「車」「器」「室」を見てみると、すべては「無」において「用」が得られている。「無」とは「虚」である。「虚」であれば万物を容れることができる。「虚」であれば物を生むことができる。天地万物、すべてが「虚」「無」の中から生まれたのであり、そうであるからそれは「大道の本元」「天地万物の根本」なのである。人も形を有している。また心も有る。心の本体は「清浄光明」で、本来「無一物」で太虚とその体用を同じくしている。ただこうした天地とのつながりを忘れて「虚霊の竅」である性が塞がってしまうと「妙明の光」である心の働きにも陰りが生じることになる。そうなれば「霊明の体」である体も現れることなく、体用の働きが整わないこととなり、つまりは「車」や「器」や「室」の空間が塞がれてしまうのと同じく使いものにならなくなってしまうのである。


〈奥義伝開〉人にあっては体が「有」であり、それによりいろいろなことができる。これが「利」である。また「無」は心で、心があるからこそ体は動くことができる。これを「用」とすることができる。また心の根源は「性」であるので、心もこの性によって動かされている。これは厳密にいえば有無を越えているので「虚」とすべきである。静坐の始めの「煉己」は還虚であり、最後は「還虚合道」となる。煉己では何らか、この物質世界より他に「虚」の世界のあることが認識され得る段階である。こうした感覚を通して「性」のあることも実感される。そして最後は「道」と合一する。つまり「性」の働きのままに「心」が働き、そのままに「体」が動くようになれば、あらゆる行為においてまちがいの生ずることはなくなるのである。


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