宋常星『太上道徳経講義』(11ー3)
宋常星『太上道徳経講義』(11ー3)
埴(はに)をこねてもって器と為す。まさにそれ無に器の用の有るべし。
「埴」とは土のことである。適切な方法によって泥をこねれば陶土として使うことができるようになる。それが「埴をこねて」ということである。ここに述べれているのは陶器を作るやり方である。器の外側は実であり内側は虚となっている。外側は有であり内側は無である。製陶の方法を人にあてはめると、それはまったく道とひとつのものといえよう。それは「空をして用をなす」ということであり「無をして中とする」ということである。そうであるから「埴をこねてもって器と為す」としているのであり、これは「無にこそ器の用がある(無に器の用の有るべし)」ということになるのである。そうであるから「乾坤造物の道」は陶器を作るのと違いがないということが分かろう。「乾坤」とは「太極の太炉」のことで、その中では五行が煉られている。それがつまりは「埴をこねる」ことなのである。春は温かく、夏は暑いのは、「太極の炉」の火加減によっている。太虚は無体であるが、このことはつまり器で「空」間のあるところと同じであって、そここそが使える、ということの妙がある。天地のあらゆる「物」は、つまり有形の器の形と同じということになる。またあらゆる物には、つまり無による「大器の妙」がある。人はよくこの無の「用」を体している。製陶の用、つまり無が心身に備えられているわけなのである。製陶のやり方を性命において用いるならば、どうして大道が成就しないということがあるであろうか。製陶の方法を用いれば器を作ることができるし、同じく「道器」も作ることが可能である。そうなれば「天下の神器」が作られることにもなる。もし「道器」を作ることができなければ、これは「天下の敗器」となる。そうであるから君子は「道器」と称されるのであり、小人は「敗器」とされるのである。まさにここではこういったことを述べているのである。
〈奥義伝開〉自己の中の「無」つまり「虚」を知ることで、ひとつのシステムとしての「自己」が完結すると教えている。我々は「有」「実」の自己だけに執着をしてなんとかその適切な働きを得ようとしているが、それがかなわないのは、本当の働きの根底をなしている「無」や「虚」を知らないからなのである。そうしたものを知るには、心に静を得て、体には柔を養う必要がある。