宋常星『太上道徳経講義』(11ー1)
宋常星『太上道徳経講義』(11ー1)
天地の道は、虚である。そうであるから陰陽の妙がある。聖人の徳はその心が虚であるところにある。そのために運用の妙がある。天地が虚でなかったならば、一日の流れが円滑に行われることはなく、万物が適切に育つこともない。鬼神も変化をすることができない。そうしたことからあらゆるものが虚の中にあることのが分かるのであり、それが生成の根本なのである。聖人の心が虚でなかったならば、天の理の微妙なところを知ることができないし、人の心を正しくすることもできないであろう。また何が正しいかを世に示すこともできないこととなろう。聖人が天下の「法」とされるのは、虚心であるためであることが分かろう。また虚心は道徳の本体でもある。こうした「法」によって「車(車輪)」は作られているのであり、「器」が作られるのであり、「室(部屋)」が作られている。つまり、それは老子の教える「物を借りて本に達する」ということなのである(つまり、有は無があることで本来の姿となり、無も有があることで本来の働きが得られるのである)。そこには「有」としては「利」があり、「無」としては「用」がある。道は本来その働きが「無」であるが、「器」は「有」としての形を持っている。しかしそこに「無」としての空間があることで「用」としての働きが生じている。もし、この「利」の中の「用」を知ることができたならば、「無」の中の「有」を知ることができるのであり、これによってつまりは道に近づくことが可能となるのである。
この章で、老子は物のあり方を知ることによって本質が明らかになることを教えている。「無」は「有」をもって「利」の「体」とする。「有」は「無」をもって「器」の「用」とする。人の幻身は、無形の性命を主体としているのであり、その理を得ていることが分かる。
〈奥義伝開〉この世に存在しているあらゆる物の利便性は、見えないものがあるからこそ可能になっている。これが大原則、つまり道である。そうしたことは以下に挙げられているように「車(車輪)」や「器」や「室」を見れば分かる。これらには空間がある。そのことで働きを持つことができている。同じく、我々の社会も見える部分だけが社会を動かしているのではなく、見えないところのものこそが、その働きを担保していることを知らなければならない。器であれば、それが四角でも丸でも、三角であっても、水を蓄えることができる。それは空間があるからに他ならない。こうしたところからすれば器の形とは社会構造であり、空間とは民衆と考えることもできよう。古くは中国では皇帝は天命を受けているとされた。しかし、世の中がうまく治まっていない時、それは皇帝が天命を失ったからとされ、社会構造の変革が必要と考えられた。このように社会構造は永遠に不変なものではなく適宜、変更されるべきものなのである。