宋常星『太上道徳経講義」(3−1)

 宋常星『太上道徳経講義」(3−1)

聖人は天地の元気が集まって生まれたものと聞いている。そうであるから完全な善を有している。完全なる徳が身に備わっており、無私であり、無我でもある。過ぎたところも欠けたところもなく、親しすぎることも疎遠すぎることもない。分類したり区別をすることもなく、あらゆる存在の力になろうとする世を憂える気持ちが強い。天地は雄大であるが、聖人の徳はそれとならぶ程である。たとえどれほど人が多いとしても、聖人の心はあらゆる人の心に寄り添っている。また聖人はその優れた才知を世のために意図的に使おうとはしない。人を惑わすようなことをすることもない。もしわずかに心を用いる(有為)ことがあるとすれば、それは聡明な才知を用いることであり、賢者の能力を貴ぶこととなる。こうして少しでも自然ではないことが為されるとすれば、それは有欲であり、有為、不善において為されている。これらの為すところ、その功績が世に高く評価された者はいまだ一人もいない。卓越した徳を持っていると高く評価された者もいまだ一人もいはしない。永遠に人々に記憶される者も存してはいない。この老子の文章を読む人はこうしたことが真実かどうかをよく考えてもらいたい。

この章では「民の争い」について詳しい考察が加えられている。それは欲があるから争いが生まれるわけで、民が盗みを働くのも、欲があって行われるのである。民の心が乱れれば、欲も乱れて統御を失う。争い、それが広がり、乱れる、これらはそれぞれ違ったものであるかのように見えるかもしれないが、それが徳を失い、(人間の本来の性質である善なる)性を失っての害であることに変わりはない。全く同じものなのである。そうであるから最後に「無為にして治まらざるは無し」としている。すべては「(本来あるべき道理である)無妄の実理」に帰せられるということである。


賢を尚(とうとば)ざれば、民をして争わざらしむ。

「賢」についていうならば、聖賢は確かに賢者ではあるが、自分を賢いとは思っていない。「尚」とは自分を尊大なものと思うことである。自分が他人にどう見られているのかといった感情の交わりを断つことができないのは、自他を分別する思いがいまだ存しているからである。こうしたところにはすべからく争いの根が潜んでいる。不平の声があがる発端となる。そうであるから統治をする人がもし聡明、才知をして政策により天下を治めようとしたとしても、天下の民はこれまで、そうした人たちが上にあって人々のためにそうした政策を実行したことのあったのを知ることはない。このような状態で上と下とが互いに争うようになれば、その国に波乱が生じないことはないであろう。聖なる国主(聖君)はただその才知を内に養うべきものであることを知っている。そうであるから才知をして民を統治しようとすることはない。そうなれば争いを止めさせようといろいろと政策を実施しなくても、(余計な干渉をすることが少なくなれば)自然にして争いはなくなってしまうものである。そうであるから「賢を尚ばず」「民をして争わざらしむ」とあるのである。


〈奥義伝開〉武術や静坐においてもいろいろなテクニック(賢)があるが、どれが良いかと迷うことになる。とりあえずは自分が良いと思ったことに専念することで迷い(争)をなくすことができる。


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