宋常星『太上道徳経講義」(5−3)

 宋常星『太上道徳経講義」(5−3)

多言は数を窮(きわ)む。中を守るにしかず。

これは老子が「多言」を譬えとして使って、まさに「守中」の意味を示しているのである。言語の妙は適切であるところにあるのであり、ただ多く言うことが貴ばれることはない。一言をもって大悟させることができるし、半句をして玄に通じさせることも可能である。しかしあまりに多言を費やすと、理を窮めることもできず、言葉が適切に使われることもない。すべては「守中」でなければならず、あまりに過ぎてはならないし、足りなくてもよくない。そして適切な時を得て話をする。そうであれば間違いはない。言葉が過ぎることはなく、ここに「守中の妙」を知ることになろう。性命の道を修するとはどういったことであろうか。それは「守中」であるに過ぎない。眼は多く見ることがなければ、その魂が動き過ぎりことはない。その意が脾にあれば、五神は自ずからよく守中に納まっている。五気は自然に集まり、その精は自然に化して気となり、その気は自然に化して神となって、その神は自然に還虚する。『道書全集』には「神が外に遊ぶことがなければ精の漏れることはない。気を集めるには特別な秘訣はない。もしよく四象が中宮に入れば、霊丹が自ずから結ばれる」とある。これが修行というものである。守中の妙、つまり天地は虚の中に妙があるということである。その理は一つであり、それを一語でいうなら「中」の一字となる。天地にあっては(すべてのものに対して不仁で公平である)「廓然の大公」が行われているのであり、これは至誠、無息の実理でもある。人にあっては虚中の静一で、「谷神は死せず」といわれる先天の神気なのである。この先天の気は形もなく始まりも終わりもない。間断することもなく、天地万物の先に存しているわけでもない。先天の中気の妙は、こうしたものである。つまりは天地万物の生まれた後の先天の気の妙なのである。またそうであるから乾坤の枢紐、元化の本根、万物の総持(中心)、性命の機要となっているのである。もしこの先天の中気の理を知ることができれば、天道についての悟りを得ることができる。この先天の中気の気を運ぶことができれば、自然に性と命は円やかに交わることになる。


〈奥義伝開〉「谷神」とは老子の第六章に出てくる太古の時代の神である。老子はこれを「天地の根(根源)」の象徴であると考え、それは「綿綿」として存している生命の源と教えていた。この柔らかく静かな呼吸を実現したのが太極拳であった。ここでは天地の呼吸を「鞴(ふいご・タクヤク)」としている。天地の間にあって風は絶えることがない。時に緩急はあってもその本質は柔らかく静かなのである(綿綿)。「綿綿」の呼吸は静坐の歴史においても静かな文息であるとか、力強い武息であるとか、いろいろと「綿綿」の呼吸である真息へと至る方法が考案されたが、結局は太極拳のようなゆったりとした運動でなければ実現できないこことが分かったのである。


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