宋常星『太上道徳経講義」(5−2)

 宋常星『太上道徳経講義」(5−2)

天地の間、それなおタクヤクの如きか。

天地は無私であり、そこに仁を認めることはできない。虚の中にあって無心である。「間」の一字があるが、そこで天と地の先天の気がひとつになっている。このことを知らなければならない。万物の徳は等しく、人の心は天地の理と合っている。それは存することもないし、存しないこともない。無の妙、有の妙があって、造化はここに始まり、ここに終わっている。物の理はここにより生まれている。そうであるから「タクヤク」をして譬えているわけである。底がないのをタクヤクとしている。穴があいているのをタクヤクとしている。それは風を起こすことができるということである。つまりこれは虚中の妙であって、動けばすなわりち風を生じ、静かであれば風は止む。動けば動くほど風は生まれ、風が生まれれば生まれるほどそこに動きが生じる。そうであるから一日働いており、これにより万物が生じている。すべては天地のタクヤクから出ているのである。人はよく虚の中にあるのであるから、身の中のタクヤクとはつまりは天地のタクヤクなのである。天地と我とは異なることがないのである。


〈奥義伝開〉天地は呼吸をしており(風)、人も呼吸をしている。これを鞴(ふいご)つまり「タクヤク」に譬えている。こうしたこともありあらゆる神秘的な修行法では呼吸が重視されている。多くの呼吸法も考案されているが、意図的な呼吸法は用いるべきではない。あくまで無為自然でなければならない。


虚にして屈せず。動にしていよいよ出る。

「虚」はその「中」が「虚」であるということである。「屈せず」とは気が往来して出入りしているということで、屈することなくして伸びることはない。これは「虚中の妙」である。一来一往、一消一息の動静は止むことなく、出入りは途切れることがない。上下に流通して、終始にわたって絶えることがない。その妙用の機軸は、屈することなければ伸びることはないというところにある。この機軸の運動は、動くことなくして出ることはないのであるから、屈することのできない不虚においては働くことがないわけである。こうした動は、始めから出ることはないわけである。つまり出入りの運動の妙を得るのは虚中の妙ということになる。陰陽は故によく動き、静かであって、五行はよく変化をする。そうであるから天地はその位置を得て、万物はよく生成をする。そうであるから生成の止むことがないのであり、その変化は無窮である。こうしたことを観て聖人の動静を知ることができれば、修道の功はいよいよ見るべきものが得られることになろう。


〈奥義伝開〉屈するから伸びることができる。こうした自然の「理」を知ることが修行の眼目となる。虚であるから実が生まれる。実を得ようとして実を求めても得ることはできない。「聖」を求めようとするなら「俗」から始めなければならない。日常を拒否して「聖」を得ることはできない。


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