宋常星『太上道徳経講義」(5−1)

 宋常星『太上道徳経講義」(5−1)

天地には天地の先天の中気があるとの教えがある。また人身には人身の先天の中気があるとされる。天地の先天の中気は万物の母であり、人身の先天の中気は性命の元である。これは「玄」から出ており、(五行の「木」で「春」を表す)「青」に入っているとされる。人身のそれは「玄米(玄の粒)」から出て、「牝」に入っている。もし天地において先天の中気が働くことがなかったならば、旱魃や洪水が起こり、風雨が時を得ることなく、冬に寒くならず、夏に霜が降るようになる。山は崩れ地は裂けて、川は枯れてしまう。種々の異変が起こるのであるが、これらはすべて天地の先天の中気が適切に働いていないためである。人身において先天の中気が適切に働いていなければ、普通に暮らしていたとしても、必ず気血の停滞を招き、百病の生じることになる。もし修行者であれば、身中の剛柔はバランスを欠いて、陰陽は調和することなく、五行の気は中宮に入りまとまることができない。四象は戊己(つなり土の兄、土の弟で「土」の中心)に帰することができず、火候は(心と体である)龍虎を制御することができなくなる。さらには陰は火の勢いを衰えさせ、不幸が続いて起こることになろう。この章では始めに天地のことから述べて、つぎにはフイゴ(ホキ)の例えを出している。そして最後には「守中」の語が示されて、「守中」の道が教えられる。「守中」となれば国を治めることもできるし、家を斉(ととの)えることも、身を修めることも可能である。聖人は人をして中道にて立たしめることを教える。それは堯が舜に命じたことと同じで、それは「中」を執ることであったのである。舜が禹に命じたのもまた「中」を執ることであったとされる。これは修道においても重要であるだけではなく、あらゆることにおいて、「守中」の道は守られなければならないことなのである。

この章で述べられている「守中」は、およそ気の及ぶところで、天より大きいものはないし、およそ形あるものでは地より大きいものはない。天地には本来、心というものはなく、無心の心があるだけであり、それはつまりは天地は不仁の仁を有しているといえる。もしこの不仁の仁が何であるかを知って、それを修することができれば、体内の河車は少しも止まることなく、性命の機は円(まどか)となり、至らないところはないようになる。そして天地の間にある「ホキ」は天と地に通じている。それは「一(先天の存在)」であって「二(後天の存在)」ではない。


〈奥義伝開〉老子の言う「ふいご(たくやく)」は「先天の中和の気」であり、これが天と地の間にあって天地を結んでいるとする。天地は後天の陰陽であり、これらを結んでいるのが、先天の中和の気なのである。


天地は不仁にして、もって万物を芻狗(すうく)と為す。

「芻狗」は草で作られた狗であり、本来は祭祀に用いられ、そこにおいて焼かれるための祭具である。祭祀に用いられて終われば捨てられる。天地の化育は万物に及ぶのであるから、この芻狗にも及ばないことはない。芻狗はまったく取るに足りないものであるが、これも万物の中の一個の存在である。そうであるから天地の視点から芻狗を観たら、それは万物に等しいものということになる。しかし普通に万物と芻狗とを比べればそれが同じものであるとは考えられない。一体とは等しいということであり、つまりあらゆるものに化育がなされているのであり、天地は無心を心としている。そこに仁の存することはないが、まさにあらゆるところに仁は至っている。そうであるから「天は不仁」とあるとされるのであり、不仁であるから「万物を芻狗と為す」のである。


〈奥義伝開〉天地はあらゆるものを等しく「芻狗」のような取るに足りないものとする。これはあらゆるものを等しく扱うということである。これは天地は「不仁」と見ることもできるし、その働きを「仁」とすることもできる。つまり「仁」「不仁」を越えたところに天地の働きがあるのである。


聖人は不仁にして、もって百姓を芻狗と為す。

芻狗はまったく取るに足りないもので草で出来た狗であるが、天地は万物に同じく化育をしている。これは天地の至仁であり、ここに過不足の生じることはない。聖人の心は天地と等しい。一つの心をしてあらゆる心の働き(万心)を有しているのであり、一つの身をし万身を有しているのである。その博愛は遍く広がり、貴賎の区別はなく、万物と一体化していて無心であり、万物の働きのままで無情でもある。こうであるから過不足の生じることはないのである。そうであるから「聖人は不仁」なのであり「もって百姓を芻狗と為す」のである。


〈奥義伝開〉聖人と天地は「不仁」の働きという観点から見れば同じであるとする。


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