宋常星『太上道徳経講義」(4−3)

 宋常星『太上道徳経講義」(4−3)

その光は和され、

和光の妙を知らなければ、紛れるを解くことは難しいであろう。「和光」とは、その心の徳の光を和するということである。一切の有情、無情はいろいろな形をしており、名や形がそれぞれ違っているが、すべてそこには光が有されている。わたしはよくこの光と和することができるのであり、つまりは我が心の徳の光は、天地に通っていて、万物と交わっている。和光の妙は、例えば水を水の中に投じるようなもので、そうした時に水を区別することはできない。また火の中に火を投じても、その火は同じく輝いていて区別することはできない。あるいは百千万の灯を一室に置いたとしたら、部屋の中で光の無い暗いところができることも、明るすぎるところが生じることもない。どの灯から明かりが発せられているのかを区別することもできない。和光の妙はまさにここにある。そうであるから「その光を和し」とあるのである。


その塵は同じくされる。

すでによくその光を和することができていれば、必ずよく塵と一体化することができる。塵と一体化することの妙は、物と我とが共にその存在を忘れるところにある。心が清く意が定まっていなければ、自分を捨てることもできず、物へのこだわりも捨てられない。よく悪しきを化して喜びとするのであるが、それは強いて愛するのではなく、自ずから人を愛しているといったことである。汚れた俗界を観ても、そこは清浄な瑠璃浄界と観ることができる。すべてが一体となり等しいものとして万物を見る。それは光と光が共に照らし合っているようで、そこには異なる色のあることなく、心が生じ滅することもない。意(こころ)には悪しき感情も愛する感情も生ずることはない。つまり「同塵」の妙はこうしたところにあるのである。


湛たるや存するがごとくして、吾、誰の子か知らざるは、帝に先んずるが象(ごと)し。

道を修行する人は、既に「大道の冲用」について知っていることであろう。そこでは「性」の海は虚霊であり、「心」の淵は湛寂である。これらを一つに融合すれば、妙に入ることができる。あらゆる「理」をして「元」へと帰ることができる。天外の無極は、広々としており妨げるものもない。世間の限り有る生の凡人の感情も、本来はまったく明朗で、自然であり清く澄んでいて(湛湛清清)。個々人の有している虚霊は円妙で、ひとつにまとまっており(渾渾淪淪)、独立して変化することもなく、永遠の時間が流れたとしても、天地が移り変わったとしても、我が「真体」はそのままで、変わることも壊れることもない。そうであるから「湛たるや存するがごとく」とあるのである。

自分の「真体」はそのままに存している。それは「無体の体」であり、無極に等しい真空の体である。それは「無相の相」であり、太極と等しい妙相の相である。我の「真体」である「妙性」は天地の始めより先にあったのであり、我が「真体」の「真心」は万物の母となっている天の「真心」と同じである。天地の造化、万物の生成は、もちろん我によるものではない。そうであるなら誰が造化をしているのであろうか。「造化」とはつまりは「我」そのものであり、「我」はつまりは「造化」そのものなのである。我、以外にその「子」となるものを造ることができようか。「吾」が「知らない」とあるのは「吾」の「真体」と天地は一体であり、そうであるから「造化」は無為自然になされている。ために誰の子であるのか分からない、としているわけである。つまりいまだ天地が分かれていない先、そこに「真我」「真体」があるのであり、いまだ太極が立つ始めのその前に、我の「真体(真我)」は先に存しているのである。我の「真我」が、つまり「章帝の先」に存しているのであるから、ここで、吾が誰rの子か知らず、としているのは、誰の子でもないからである。「帝の先の象し」とは、つまりはこうした意味なのである。「象」は日月星辰のように、天に貼り付けられているのが「象」である。「帝」は万物を主宰するもので、乾坤を動かしている。そうであるから大道冲用の妙は、万物を動かしている「帝」の先を知ることにあるのであるが、はたしてよく修行をしてこれらの妙を悟る境地に至ることができるであろうか。つまりそこには「道」と「真」とが一体となっているのである。


〈奥義伝開〉この部分は「湛として存するに似たり」「吾、誰の子か知らず」「帝の先に象(に)たり」と分けて読むことが多いが、これは「湛」という瞑想の境地が「渾沌」を象徴的に体得するものであることを述べていると考えるべきであろう。「吾」が誰の子か知らないというのは、自分が体験していることでも認識されていないことがあることを教えている。人は自分の母親が誰であるのかを周りの人から聞かされて知るだけで自分でそれを認識することはできない。つまり生まれて「秩序」化、成長に向かう前の胎内に居る「渾沌」を知ることはないのである。それと同じく我々の社会は「帝」という収奪者の存在なくてはならない(秩序)と思い込んでいるが、その前には「渾沌」とした状態で人々は暮らしていたのである。しかし、それを我々は生まれる前と同様に認識できていない。原始時代のような生活もあることを老子は考え及んでいたわけである。


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