宋常星『太上道徳経講義」(4−2)

 宋常星『太上道徳経講義」(4−2)

その鋭は挫かれ、

ここまでで老子は既に大道冲用のことを述べている。「鋭」のは尖った刃のようなものである。「挫」かれれば研いだりして刃を整えなければならない。例えば人の聞いたり、見たりする知覚作用は、それが聡明な才知であれば、つまりは鋭い刃の先に例えられることが多い。しかし、もし、そうした才能も磨くことがなければ、(刃もその鋭さを失ってしまうように)現状に満足してしまい次第にそうした才能も失われてしまうことになるであろう。そうであるから急いで神を収斂して静を得て、よけいなことを考えることなくあるがままにしているべきである。そうすれば鋭い才能も表に現れることなく、その鋭さが損なわれることもないであろう。もし知性があったとしてもそれを表立って使うことがないようにする。才能があってもそれを用いることがない。ただ「一」である(渾沌、渾元の状態にある)のみで、「素」を抱えて、「拙」を養うようになれば、すでに鋭さを挫くの功は成就したといえよう。その道は自ずから冲(やわ)らかに用いられることになる。そうであるから「その鋭を挫き」とされている。


〈奥義伝開〉ここからは「秩序」から「渾沌」へと向かう流れが示される。人は人体の「秩序」が保たれている間は生きていることができるが、これが「渾沌」へ入ってしまうと体を維持できなくなる。鋭いものも次第に鈍化して行く。これが自然の姿と老子は教えている。


その紛(みだ)れるは解かれ、

鋭さを挫く方法は、この紛れるを解くことと同じである。紛れるを解くことができなければ、鋭さも挫くこともできはしない。これは天下の物事の理である。堅く織った布は解くことが難しい。堅く固まったものは解すことが難しい。大道冲用の人はそうした状況にあって、心を知り性を悟って、是非を争うようなことはしない。まったく糸を解そうとすることなく、利益を求めて感情的になることもない。何か生じれば、それを迎えて刃で両断する。いろいろに変じることに対応することが多いとしても、その心はただ寂としており不動である。老子はそうした状態であれば「その紛(みだ)れるは解かれ」るのであるとしている。つまりはこういうことなのである。


〈奥義伝開〉この「秩序」から「渾沌」へと向かう自然の流れを教える部分は「鋭きを挫き」「紛れるを解き」と能動的な働きとして読まれることがあるが、それでは有為の行為となるので自然の行為とはならない。あくまで自然に「挫かれ」「解かれ」るのでなければならない。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)