宋常星『太上道徳経講義」(4−1)

 宋常星『太上道徳経講義」(4−1)

大道の本体の働きは、大天下(大宇宙)に収まり切ることのないと同時に、小天下(地球)にもよく収まってしまうものでもある。その働きは留まることなく、あらゆるところに及び、そこには音も匂いもない。限りに開く空空としており、何らのその存在を示す兆しをも見ることはできない。影も形もないが、理があり気がある。天地の間で留まることなく円転している。この章ではまさに大道、冲用の妙義が述べられている。もし、よくこの冲用の機を知ることができたならば、その一身において常に冲が動き、円滑に働くようになる。ここに「春」の生じないところはなく、陰陽は我が手の中にある。造化は我が身の中にある。我が身は未だかつて「象帝の先」と共にあったことはない。我が身と「象帝の先」の身とは一体となっているのである。この身を体認することができれば、冲用の意味を悟ることができるであろう。「道」「冲」を用いるとは、つまりは自然でありそのままであるということの妙であるというになる。聖人の徳は、光を和して塵と同じく(和光同塵)なっており、またここには虚心、自然の妙もある。虚心とはつまりは冲を用ることであり、冲を用いるとはつまりは盈(みつ)ることがないということである。冲を用いて盈ることがないのは、つまりはそれが無極であり太極であるからである。二五(陰陽)の妙はこれを合わせて本根となるところにある。もしよくこの意味を理解することができれば、つまりは「万物の宗」を得ることができよう。


道は冲(やわ)らかにしてこれを用いるも、或いは盈(み)ちず。

「冲」とは和ら(やわ)かということである。「盈ちず」とはそのままで盈ることがないということである。虚をして体としている大道の用は和らかに用いられる。虚をして体とするとは、体が静かであるということである。和をして用となすとは、これを用いるのに和らかであるためである。そうであるから冲を用いるのは、天地がいかに大きくても、天地に数しれない程の物があるとしても、それがそのすべてを知ることなどできない程であるとしても、こうした人知を越えたところに、冲を用いることの妙があるのである。ただそれを見ようとしてもその形を見ることはできない。その音を聞こうとしても聞くことはできない。虚であり虚でなく、実であり実ではない。これを取っても得ることはできず、これを捨てようとしても捨てることはできない。冲が何であるかを探り得ることはできず、その用がどのようであるかを測ることはできない。ここでは「盈ちず」とあるが、これは強いてそういっているに過ぎない。これを詳しくいうなら「本然の妙」ということになろう。それはいまだかつて盈たないということはない、ということである。ただその「虚」ということでいうなら、それはつまりは「道は冲らかにしてこれを用いる」「或いは盈ちず」ということになる。


〈奥義伝開〉「冲」つまり「和らか」とは、システムとしてしっかり固まっていない、ということである。つまり渾沌としている状態が残っているということである。すべてが秩序化してしまうことを「盈」としている。渾沌とした状態では秩序が固定化されてしまうことがないので「盈」ことはないわけである。


淵や、万物の宗に似る。

「淵」は、その深さや広さが測り難いところということである。「宗」は根本ということである。これを詳しくいうなら万物は道がなければ存在することはできないということになる。道がなければ存在することができないとは、道が存しなければ、万物も存することができないということである。つまり道がなければあらゆるものが存在することができないのである。大道の本体は、万物を生み育てて、尽きることがなく、万物を冲和して残すことがない。その理は深遠で、思考をして知ることはできない。その道の妙は隠れており、言語をして知ることはできない。そうではあるが物としてあらゆるところで表れている。道から入って、冲用の機を究め、その深遠なる理を探る。それは「一」であるようで「一」ではなく、「二」であるようで「二」ではない。窮まることなく、尽きることもない。万物は道をして根本・宗としているというのはこうした意味である。そうであるから「淵や、万物の宗に似る」とあるのである。


〈奥義伝開〉ここで示されている「淵」は静坐の境地を示すもので、後の「湛」も同様である。渾沌とした感覚は深い水の淵に沈み込むうような感じになる。老子はあらゆるものが「渾沌」から生まれて「秩序化」へと向かうとする。


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