宋常星『太上道徳経講義」(3−3)

 宋常星『太上道徳経講義」(3−3)

これをもって聖人の治は、その心を虚とし、

虚心とは、いうならばその様子を見ることもなく、それを良しとすることもなく、誇ることもないし、驕ることもない、こうした心がつまりは虚心といえるのである。その心を見ようとしても自分で見ることはできないし、その心を良しと認めようとしても認めることはできない。自らを誇ろうとしても誇ることはできない。自らを奢ろうとしても驕ることはできない。そうであるから聖人の心とされるのである。捉えどころが無く(虚霊)不可思議(妙)で、滞ることなく働いてはいるが、何らの存在を示すこともない。これまで一度たりとも物的なものとして表れたことはなく、何らの価値をも持ったこともない。また欲望に乱された魔境にあっては虚心の不可思議(妙)の働きを知ることはない。そうであるから「その心を虚にし」とあるのである。


その腹を実(み)たし、

実腹とは、意識が清らかで気が体に満ちている状態のことである。天地の理にかない、道と完全に一体化している。つまりこれが実腹ということである。聖人の腹の中には、天地が含まれており、そこでは万物が育まれている。これが道であり、万物を育む究極の養いなのである。そこでは徳が厚く積まれているが、ただ一点そこに実腹の人を欠くことはできない。そうであるから「その腹を実たし」とあるのである。


〈奥義伝開〉「道」を実践すると「徳」として現れる。それを行うのは人であり、そうした人は実腹を有している。孟子でいうなら浩然の気に満ちているとすることができよう。養生の秘訣も実は「徳」の実践にあるのである。


その志を弱(やわら)かにし、

弱志は、例えるならば雄を知り雌を守るということになる。白を知り黒を守り、栄(ほま)れを知り辱しさを守ることである。つまりこれが弱志の意味なのである。これは赤子の無心と同じであり、知ることもなく、意識することもない。神は定まり、気は和している。行うこと、止めること、語ること、黙ること、一言一行、すべてがあえて自ら誇り、自ら驕る思いを持つことはない。そうして家を整え、国を治めて、天下を平和にする。またあえて天下の先となることもなく、道は柔らかきにあり、徳は順なるにある。よくその志を弱(やわら)かにすれば、道徳は自ずから我に帰することになる。そうであるから「その志を柔かにし」とあるのである。


その骨を強(すこや)かにす。

強骨とは、例えるならば自分であれこれ考えるのではなく道のまま、徳のままにあるということである。道徳をして自分の誤った思いに勝たなければならないのであり、道徳をして他人に勝つのではない。これがつまりは強骨ということの意味である。つまり、己に勝つことが、強骨ということなのである。他人に勝つのは、これを強力という。強骨には、自ずから強くして止むことのない妙がある。そこには勇猛、精進の心があって実際の行動がなされる。道を行えば必ず結果が生じる。徳を行えば必ずそれが現れる。その志の強さは、骨や角のようである。そうであるから「その骨を強かにす」とあるのである。


〈奥義伝開〉有為の「志」は弱い。一方、無為の「志」は強い。人は時間を忘れて物事に熱中することがあるが、そうした場合は無為であることを知るべきであろう。


常に民をして知ること無く欲すること無からしむ。それ知る者はあえて為さざらしむ。無為を為すは、すなわち治まらざること無し。

ここでは虚心、実腹、弱志、強骨について述べている。これらは全て無為の道である。聖人は天下の人々をして、素朴で純朴たらしめようとしている。無知、無欲とならせようとしている。必ず無為の道をして民を治めるのであり、天下は自ら無知、無欲の道に帰することになる。民が無知であれば民は自ずから素朴となり、民が無欲であれば民は自ずから正しく生きられる。聖人が無為をして民を治めると、民は知っていることがあったとしても、それをあえて実行しようとはしない。民が既に無知、無欲であれば、素朴で純朴となり、そうなると最後には無為となる。これは広く明らかなる傾向であり、そうであるから無為を為すのであり、そうなれば天下は治まらないということはない。つまり「常に民をして無知、無欲ならしめ」ということである。ここで民に知らせる必要がない、としているのは、あえて知らせないということである。これは無為を為すいうことと同じで、そうなれば治まらないところなど無いのである。


〈奥義伝開〉最後に老子は見せかけでも「無為」を行えば統治が容易であることを教えている。この「無為」が見せかけであることは「無からしむ」「為さざらしむ」と強制の表現を使っていることでも明らかで、これでは無為とはならない。有為をして無為を行うことなどできるわけもないのである。為政者は常にこうした手法を取ろうとするので人々は注意をしなければならない。世界報道自由度ランキングで日本は常に低い位置にあるが、多くの日本児は報道の自由が制限されていると感じることは少ないであろう。それは権力者から制限される程の報道そのものがなされていないからである。つまり「知ること」がないので、報道の自由を「欲する」こともないという老子の語るそのままが原題の日本でも見られているのである。


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