宋常星『太上道徳経講義」(3−2)

 宋常星『太上道徳経講義」(3−2)

得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗をなさざらしめず。

「得難きの貨」とは必ずしも金や玉(ぎょく)のような宝物に限るものではない。およそ世間で価値あると思われている一切の「貴重品」が、すべて得ることの難しい「貨(もの)」なのである。もし「上」の者にそうしたものを好む心があれば、「下」の者は必ず誤ってそうしたものが価値あると思い込んで、それを得たいと思うようになる。こうなるとどうしても貪りの心が生まれてしまうので、盗もうとする者も出てくるであろう。例えば財産家の人が居て、高い塀を巡らした家に暮らし、家来に見回りをさせて、弓矢で武装をしていたとする。また自分の傍らには刀を置いて、日夜警戒を怠らないようであったならば、その人は終日休むこともできず、本当は盗賊が襲おうとはしていなくても、自分で自分の心に恐怖の思いを常に作り出してしまうことになる。これはすべて「得難きの貨」を貴んでいるためである。そうであるから盗賊を過度に恐れてしまうようになる。こうして見ると「得難きの貨」が盗賊の妄想を生み出す根となっていることが分かるのであり、また実際に盗賊を呼び込むことにもなろう。そうであるから「得難きの貨を貴ばざれば」「民をして盗をなさざらしむ」とあるのである。


〈奥義伝開〉「得難の貨」の価値は社会的に作られたもので、それは大体にして得る必要のないものである。


欲すべきを見ざれば、心をして乱れざらしむ。

世の思い込みには欲望によるものが多いが、もしよく深くその心を見通すことができたなら、そこには何らのこだわりもなく、物に執着することもないことが分かるであろう。ただ心は道を見ているのであり、そこには何ら執着を覚えるような「貨」は存してはいないし、そうであるから欲すべき「貨」などあるわけはないのである。もう欲すべき何物もないとすれば、心は自然に安らかとなり、それが欲しいなどといった思い込みがどうして生まれることがあるであろうか。道を学ぶ人は、欲望などといった思いは本来、存してはいない(空)ことを知っている、心は静を求めなくても自ずから静かであることを知っている。心が清く静かであれば、どうして乱されることがあ」であるであろうか。そうであるから「欲すべきを見ざれば」「心をして乱れざらしむ」とあるのである。


〈奥義伝開〉人の心の本体を「性」という。「性」は「善」なるもので、「虚」でもあるとされている。


このブログの人気の投稿

道徳武芸研究 八卦拳の変化と蟷螂拳の分身八肘(8)

道徳武芸研究 改めての「合気」と「発勁」(6)

道徳武芸研究 八卦拳から合気道を考える〜単双換掌と表裏〜(4)