宋常星『太上道徳経講義」(2−3)

 宋常星『太上道徳経講義」(2−3)

万物、作(な)して辞せず。

ここでは天地が万物を生成していることが言われている。千変万化は自然にし成るものである。まさになるべくしてなっているのであり、いまだかつてその活動を辞めたことはない。これを聖人が万民を教化することで考えれば、千変万化、自然にしてそうなり、まさになるべくしてなっている教えなのであり、これまで辞めようとしたこともないのである。そうであるから「万物、作して持せず」とあるのである。


生まれて有らず。

これは天地は無心をして心としていることを言っている。万物が生まれ育つのは、すべて自然にそうなるのであり、まったく意図的な「有心」の入り込む余地はない。聖人もまた「無心」をして心としており、万民を教化している、これもまた自然にそうなっていて、まったく「有心」が入り込むことはない。そうであるから「生まれて有らず」とあるのである。


為して恃(たの)まず。

これは天地は「無為」であるといっても「無為」の中に自ずから為さずして為すことの妙が含まれていることをいっている。他人に知られることを求めず、人に見てもらおうとも思わない。つまりこれが変化における巧みさ(自然さ)なのであり、まったく自分の能力を恃むことはない。天地の造化が巧みであるといっても、このような見えないところで行われることの妙があるのであり、聖人が人々を教化することを考えても「無為」の中にまた、為さずして為すことの妙があることが分かる。聖人もまた他人に知られることを求めることなく、他人に見られることを求めることもない。またまったく自分の能力を恃むこともないのである。そうであるから「為して恃まず」とあるのである。


功成りて居ることなし。

ここでは天地が万物の形を生むことについて述べている。それは万物の有する「性」によるのであって、その生成の功績は莫大であるといっても、どうしてそれが天地自身のものであるとするようなことがあろうか。聖人が万民の生き方を教えることを考えてみても、万民の「性」を開いて、人における天理の働きを完全なものとして、欠けるところがないようにするのである。そうであるから、その功績もまた莫大であるとすることができるであろう。もしこうした功績をして聖人を評価しようとしても、聖人は自分の功績を忘れてしまっている。まったくの無私であり、自らの功績に安住する(居る)ことはない。そうであるから「功成りて居ることなし」とあるのである。


それただ居ることなく、これをもって去らず。

「それ」は前までの文章の内容をいっている。「ただ」はひとりということである。「居る」とは処を占めているという意味である。つまり聖人は自分のものであるとされるものに安住することはない、ということである。虚心をして物に対しており、行ったことの名も覚えていないし、その形も忘れてしまっている。無我、無人であり、有為のあとを見ることはできないのである。聖人は人々を「教化」すると、あえてそれに名を立てて執着することもない。そうであるから「居らず」とあるのである。道徳が聖人によって立てられることを詳しく論ずるならば、「教化」は聖人にしたがって生まれるのである。聖人の心は、一定のところに安住することはないので、功績があったとしても最後にはそれに拘泥することなく手放してしまう。しかし、およそ道徳は世間では高いものとされこの世にあっていまだかつて聖人の行った功績が聖人に帰せられないといったことはない。それはたとえば大海の水のようで、多くの流れが、求められることがなくても自ずから大海に帰するのである。そうであるから「それただ居ることなし」「これをもって去らず」とあるのである。


(奥義伝開)聖人は行ったことの結果としての「功績」に執着することはないが、それをあえて拒否することもしない。そうなると周囲に人が功績を称えて、その「功績」が聖人の行ったことであると長く伝わることになる。よく老子の道を社会的な評価を拒否するものと考える人が居るが、本当はそうしたものをあえて拒否することも、あえて受け入れることもないのである。


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