宋常星『太上道徳経講義」(1−1)

 宋常星『太上道徳経講義」(1−1)

はじめに

今週から『老子』の注釈は宋常星の『道徳経講義』となる。宋常星も清の時代の人で、号を龍淵子という。先の注釈者である世祖(順治帝)の六(1649)年に科挙に受かって政界へと入る。三十余年官界に居た後、故郷に帰って清浄派静坐の修行に専念した。また『道徳経講義』は康煕帝により価値を認められて、朝廷でも文武の官僚にこの書による修行が勧められたという。これはこの注釈が多分に儒教の静坐の教えが入っていることとも関係しているであろう。その意味では朱子学や陽明学的な考え方も多く見ることができる。同書は解説が実際の修行にわたるため長くなっていることもあり、ひじょうに有益である。こうした修行のポイントについては〈奥義伝開〉として指摘をしておいた。


第一章 妙を観(み)る

考えも及ばないことであるが、無極は太極であり、自然無為の実理であると聞いている。これが「道」と謂われている。道から生まれたのが「徳」である。また「経」は変わることのない真実のことをいう。天を生み、地を生み、人を生み、物を生む。誕生と死去の真実、国を治め身を修めることの要点、古くから聖賢はこうしたことを「経」を通して微細に観察をして来た。しかし世の人は知見が限られ、意識も明確ではないので、道の創造の原理を知って徳を治めることができない。そのためこの「経」を読んでも微細な認識を得ることができないであろう。およそ「経」を読む方法としては、心を正しくして、誠意をもって読まなければならない。一字でも軽々しく見てはならない。そうして自己の言うことや行動することを通して、聖賢の言行を体認するのである。もしこうしたことができないならば、必ず心を奮い立たせて努力をしなければならない。あるいはよく内容が分からないこともあるかもしれないが、そうした時には必ず優れた先生を訪ねて教えてもらうべきである。こうしたことを長く続けていると、自然に心の境地も高まってくる。もし、こうした努力を惜しむならば、心の境地は開かれず、大いなる道を悟ることもできないであろう。そうなれば「経」を読まないのと何ら変わりはない。


〈奥義伝開〉静坐といろいろな文献による研究が共になされなければ深い境地には入れない。


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