宋常星『太上道徳経講義」(1−2)

 宋常星『太上道徳経講義」(1−2)

道の道とすべきは、常の道にあらず。

道の一字は、天に先んじ、地に先んじて存在しているものを表しているのであるが、また「道」それはそれそのものでもない。天の生まれてから後、地の生まれれから後に「道」は存在しているのであり、それと同時に天地の生まれる前から「道」はあるわけである。極まりなく大きく、極まりなく細かい。四角でも円形でもなく、形を有することもない。その大きいことはあらゆるものを包み込み、その細かなことは考えることもできない程に微細である。大きいものも、それを量ることはできる。小さいものも同じである。しかし「道」の大小は量ることができない。そうであるから至妙、至玄とされる。無極であり、太極である大道なのである。「可道(道とすべき)」の二字は意味としては「道である」ということになる。真静で悠久、これを「常」という。道とすべきの道は、つまり「真常の道」である。ただこう言って形容すれば、一定の理解が生じてしまう。しかし、「真常の道」はそうしたものに限定されることはない。常に変化をしているからである。そうであれば(常に変化をしない)「常に久しい」ということはできないことになる。そのため道は(変化をしない道ではないということで)「常の道にあらず」とあるのである。


〈奥義伝開〉修行は自己を限定することではなく、限定から開放されることである。



名の名とすべきは、常の名にあらず。

「名」の一字は、本来は名前をつけて限定することができないのが「もの」であるということである。およそ存在している「もの」には、すべて名が付されている。そしてこれを「名」と謂っている。しかし、「もの」の状態は変化をするのであり、それぞれの状態によって「名」が付されている。一方で変化をすることのない物は(この世にはないので)「名」を付すことはできない。変化をするために(変化をしない名ではないということで)「常の名にあらず」と謂っている。この世が続く限り「もの」の形や色はいろいろと変化をして窮まることがないであろう。そうした中に一定の「名」が生まれているのであるから、数限りない「名」があるといえる。あらゆる「もの」には名が付けられているように、大道の「真名」は、道であるとされている。ただ、これも強いて付されているに過ぎない。つまり「道」には「名」は無いのである。人はよく「名」とされているものが、こうしたもの(存在の一時期をのみ表すもの)であることを理解しなければならない。あるいは「名」は限定された物の状態であることを理解しなければならない。ひとつの「もの」に、いろいろな「名」が付けられているとしても、それはあくまで仮のものであるに過ぎないのである。


無名は天地の始り。

太極がいまだ分かれることなく、陰陽も明らかでない時は無極とされる。無極は太極を含んでおり同時に陰陽をもそこに有している。それは太極といわず、陰陽といわないで無極と称する。天地には本来的には「天地」という名はない。これは形を見て仮に名付けられたものである。天地は「道」の後に生じているのであるから、「無名」はつまりは天地に先立って、始めからあることになる。これは人にあっては喜怒哀楽の未発の時となる。寂然として不動の状態である。これが人における「無名は天地の始め」である。修道の人は本当にこの「無名の始り」のことを知っているであろうか。そして天地の始めを知っているであろうか。すべての「もの」が名を持つ「有名」なる状態は全て「道」の後のことなのであり、時に応じて変化をし、時に応じて滅ぶことも常である。そうであるから(変化をしない「名」ではないということで)「常の名にあらず」とされている。


〈奥義伝開〉静坐では喜怒哀楽の存することは否定しない。重要なことはそうした感情の未発の状態を知って適度にコントロールするところにある。


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