第七十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第七十九章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では大道は無心であることが述べられている。恩も怨も共に忘れたところに、まさに至道を知ることができるのである。人は自らに大怨を有している。そうであるから必ずそれと和さなければならない。例え日頃は怨の心に執着することがなくても、怨に思うことがあれば怨は生ずるものである。こうした全ての怨を除いてしまわなければならない。これが「善道」というものである。聖人は執着することがなくても成功を手にするし、またそれにも執着することがない。常に社会に奉仕(天に奉じ)しようとしている。どうして契約を主導するようなこと(左契)があろうか。つまり成り行きに任せてるだけで、自分で行動するようなことはないのである。そうであるから「無怨」でもあり、他人の責任を問うこともない。つまりそうした人が「契約」を司れば、自ずから合意を得られる状態の時にのみ契約をすることになる。自分が相手の心を受け入れるのではない。そうした人は「有徳」ということになろう。ただもし、どのような相手でも、それを受け入れようとするなら、「無徳」に徹しなければならない。これはあるいは人の司る契約として一般的ではないかもしれない。しかし天の道もまたそうなのである。天の道は見ることはできないが、常に善人と共に存している。そうしてすべてを司っているのである。


(徳がある人が中心となれば契約を成立するが、そうでなければ成立しない。これは当然のことである。また「天の道は親しきこと無く」も、天の道というものは祈ったりしても、それを聞いてくれるようなものではない。こうした迷信を老子は厳しく指弾して「常に善人とともにす」とあるように「善」なる行いをしている人には自ずから道が開けてくることを述べている。)


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