第七十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第七十二章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

この章では民情の偏りについて述べている。それによって道に導こうとしているのである。およそ民が行動をして命を失ってしまうのは、その畏ろしさ、危険がどこに存しているのかを知らないからである。それは一般的には兵隊であり、一般的には刑罰であり、一般的には寝床の上(性行為)であり、一般的には飲食の時にある。これらには全て寿命を縮め命を損なう危険が伴っている。つまり、これらはすべて大いに畏れるべきものなのである。もし、何を畏れるかを知らなければ、いろいろな災いが生ずることとなろう。そうであるから「多いなる災いが生まれる(大威の至りなり)」ということになるのであり、これはまったく道理に合っていよう。人々に静かに居ることを求めても極めて難しい。不安があるので退いて静かにしていた方が良いような場合でも、あえて進んで動いてしまう。それは広いところに住もうとしてかえって狭いところに住んでしまうようなものである。それは自分で狭いところに住もうとしたからではない。たとえ同じ空間であってもそのに「無」の存することを観ることなく、ただ「有」をのみ感じてしまい、「無」の広がりが分からないのである。それは長生きを求めて、かえって長生きを厭うようなことをしてしまっているのと同じである。ここにおいては自らが生まれたことをも厭うてはならない。もし、よく厭うことがなければ、生を求めることにも、こだわりがなくなってしまう。そうなると生を厭うこともなくなるわけである。そうなれば聖人となれるのではないであろうか。自己の内面を見つめて(返照)、道を知るのであり、道をあえて求めることはない。虚となって(致虚)自ずから生を愛するのであり、必ずしも自らがそれを重視するのでもない。そうなれば狭いことを厭うたり、好んだりする何らの要因さえもないことになる。そうなれば自ずから狭さにも、広さにも、こだわりの無いとことに居ることになる。自然と長生きができているようになる。ために「あれを捨てれば、これが得られる(彼を去りてこれを取る)」とあるのである。


(最後の「彼を去りてこれを取る」は、老子によく出てくる当時の諺のようなものである。老子はこうした古くからの信仰や考え方を取り上げて、それに新しい意味を付与して教えを説いている。「あれを捨てれば、これが得られる」とするのは当然のことで、あれもこれも持つことはできない。ひとつを捨てなければひとつを得ることはできないということである。こうした合理的なことはつまりは、こだわりを捨てると、狭いや広い、厭うや好むといったことにとらわれることもない昔からの合理的な考え方と違いはないとするわけである)


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