第七十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

 第七十一章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】

先には道は知ることは簡単であるが、真に道を知るものは少ないとあった。たとえ道を知っていたとしても、それを語ることは容易ではない。道を悟っていて、しかも道を知らないように見せるのが「上」であるとされる。本当は道を分かっていないのに、分かっていると思い込んでいるようは状況は道を学ぶ上では不適切な状態(病)にあるといえよう。分かっていないということが分かっていれば、それは不適切な状態にはないとすることができる。つまり適切である(無病)ということになるのである。つまり聖人が適切な状態にある(無病)とされるのは、不適切な状態がどのようなものであるかを明確に知っているからに他ならない。そうであるから自分が分かっていないということが分かっていないような不適切な状態に陥ることはないのである。


(よく「ニュースの読み方」を教える人が「あらゆることを疑え」と言うことがある。そうすることで真実に近づくことができるとするのであるが、人はなかなか時代の風潮(常識)から完全に抜き出ることは難しい。一年くらい経って見れば、多くの人が時代の空気に囚われていたことがよく分かるが、その中にあっては余程、注意していても往々にして限界があるものである。しかし、とにかく「疑ってみること」の重要性を老子はここで説いている。大切なことは得られた結論の正しさではなく、真実を求めて疑問を持つという態度なのである)


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