道徳武芸研究 「守破離」と「精気神」(2)

 道徳武芸研究 「守破離」と「精気神」(2)

「守、破、離」については先に触れた通りなのであるが、それらは結局は「自由な意識」の獲得にあるとすることができるであろう。所謂「意識の解放」がなければ、けっして「離」の段階を得ることはできないからである。これらはまた静坐でいうところに「精、気、神」のレベルの違いでもある。「守」は「精(フィジカル)」レベルの稽古であり、これは肉体を通して技を体得する。次の「破」は「気(エーテル)」レベルの稽古で、技という動きを通して感情のコントロールを学ぶことになる。とりわけ武術では恐怖心を克服することが求められる。恐怖心は生命を脅かされるところから生じる。そこで一旦、自己の生命を捨てる気持ちを持つことでかえって、命を長らえることができることを武術は教えている。これが太極拳の「捨己」であり、静坐では「煉己」とされる。「人は本来死ぬものである」と改めて認識することで、本来の生きる道が見えてくる。最後の「離」は「神(アストラル)」のレベルの稽古であり、あらゆる囚われから自由になろうとする。そうであるから武術の技の囚われも脱せられるわけである。


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