道徳武芸研究 純化した「合気」としての呼吸力(6)

 道徳武芸研究 純化した「合気」としての呼吸力(6)

合気道では大東流の「合気」に含まれる相手に力を押し込む動きを反合気的なものとしてできるだけ排して行った。そうであるから立技でも、相手にしっかり掴ませるより前に動き出して、完全に掴まれる前に技を掛ける。大東流のように相手の力の使い方を感知して、それから力を押し込む方法はある程度その術理を知っている相手であれば手を離されてしまう危険がある。どうして大東流ではそのような構成の「合気」が考案されたのか。それは相手が絶対に手を離すことのできない状態にあったからである。つまり刀を持っている手を抑えられたという状態が考えられているのであり、刀を持っているこちらの手を相手が離すことは自らを絶対的な不利に導くことになる。これが近代以降の柔術のみが想定されるような場面となると使えないので、合気道のような合気が模索されることのなったのであろう。しかし、一方で植芝盛平は完全に大東劉の「技」を棄てることはできなかった。ここに合気道の抱える「矛盾」が生じることになった。晩年の盛平は合気道の技は「気形」であるとして、攻防の意味を希薄化し、大東流の技からの脱却を目指したのであるが、結局はそれが実現することはなかった、もし、それを実現していたら合気道は分かりにくいものとなって植芝盛平一代で終わったかもしれない。こうしたところが武術の難しさである。


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