道徳武芸研究 純化した「合気」としての呼吸力(1)

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純化した「合気」としての呼吸力(1)

一部には「大東流の合気は技術であるが、合気道の合気は理念である」とする理解がある。これは大東流では「合気」を掛けた時に相手が反り返るような動きになって現れたりすることの分かりやすさも原因していよう。そうした身体状態を導き出す技術が「合気」とされるわけであるから大東流のいう「合気」はひとつの技術として明確に認められることになる。一方、合気道では「合気」を「宇宙と一体となる」とか「万有愛護の精神」であるとか言われるのに加えて、技の中に呼吸投げはあっても、合気投げなどが言われるものがないこともあって、「合気」は具体的な技術として展開し得ていないのではないかとされるわけである(合気投げとする技法が示されることもあるが、ほぼ呼吸投げと変わらないし、一般的ではない)。ここで問題とすべきは、なぜ合気道において「合気」が理念となったか、ということである。そこには大東流の「合気」が、合気の意味としての「気を合わせる」ということからして、大東流が技術として示している「合気」ははたして合気とするにふさわしいものであるのか、ということがある。取られた手を押し込むようにして相手を崩す手法を「気を合わせる」とすることができるのか、ということである。


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