道徳武芸研究 手印と静坐(8)

 道徳武芸研究 手印と静坐(8)

これは静坐だけではなく中国における「修行」法の特徴ということができるであろうが、中国における修行は「結果」を求めることを第一義とはしていない。そうであるから「易」も既済ではなく未済をもって終わるわけである。静坐はあくまで「自然」な状態を開くためのものであり、それがどのような状態であるのかを明確にする必要はないとされている。「仁」や「孝」といった儒教の徳目も、ある一例を示しているに過ぎないのであって、それらはすべからく人の本来の性質・気質である「性」から発せられたものと考えるのである。こうした意味において武術もあくまでそこに示さてているのは「プロセス」であって、それが「最終形態」ではないのである。ために日本人からすれば「中国人はかってに形を変えてしまう」と思われることが多い。静坐で坐法や手印が一定していないのは、このようにどのような意識状態に導くかが決まっていないからなのであるが、できるだけそれは「自然」であることが良いとされているので、作為は少ない方が良いと考えられている。


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