第三十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】
第三十四章【世祖 解説 〔両儀老人 漫語〕】
この章では、道体は分けることのできないことが述べられている。そうであるから「汎(ひろ)かるや」として、あらゆるところに存しているもののその具体的な姿を見ることができないのである。左であっても、右であっても、それが無いというところはない。あらゆるところに存している。あらゆる物は全て道から生まれている。その働きは止むことがない。この世の始めから物を生み続けている。そうであっても、その功を誇ることはない。およそ道というものは、万物を愛し養うものである。そうであってもそれを自分が行っているという気持ち(主宰の心)は無い。ただそれは虚であり、無に属している。そうであるが、あえて名を付けるならばこれは「小」ということになる。万物が道に帰するので、道は「主」ということになる。しかし道のそうした働きを知ることはできない。そうであるから「大」と称するのである。ただ「小」とか「大」とかいっても、それが実際に道の名であるということではない。そうではあるが、「小」であったり、「大」であったりする。こうしたことがあるので聖人は結局は自分を「大」とすることもないが、よく「大」いなることをするのである。
〔良いとされることでも、悪いとされることでも、道を知っている人はこだわりを持つことはない〕