第二十章 【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

 第二十章

【世祖 注釈】〔両儀老人訳〕

学びを絶てば憂うること無し。

〔何事も学び尽くそうとするから、知らないことがあるのではないかと心配になってしまうのである。情報の収集には限りがないし、それだけに心を奪われるのは適当ではない〕

学んで学び尽くすところまで至れば絶学に至ったといえる。思って有為に行うことが無ければ、つまりはよく憂えることが無くなるのである。


ただ唯(い)と阿(あ)の相去ること幾何(いくばく)。善と悪の相去ること幾若(いかん)。

〔「はい」と丁寧に答えるのと、「何だ」と横柄に答えるのとでは大きな違いあるようであるが、ただ「はい」と「何だ」と言葉を発しているに過ぎない。善と悪も大きく違っているようであるが、善は容易に悪に転ずるし、悪も容易に善とされる。違いはないともいえる〕

「唯」と「阿」は共に発っせられた声である。「唯」は恭順であり「阿」は傲慢な対応である。ただ恭順であること(唯)は、横柄であること(阿)に勝っている。それは(道に近い行為であるので)遙かに勝っているということができる。


人の畏れるところは、畏れるざるべからず。荒れてそれいまだ央(つき)ざるや。

〔他の人が畏れていることを、必ずしも畏れる必要はない。無闇な行為はそれを終わらせる方法が見つからず、だらだらと続いてしまうことになりかねない〕

人の畏れるところは、聖人もまた畏れるものである。つまり、そうした畏れは、大きなものであって、限りがない。「昏乱して永遠に尽きることがない(荒れてそれいまだ央(つき)さるや)」とは、土地が荒廃して堺が分からなくなった状態(規矩を失った状態)である。


衆人、煕煕(きき)たるは、太牢を享(う)けるが如く、春、台に登るが如し。

〔多くの人は好むところに溺れている。それは美食に溺れるようでもあるし、それは春に高台に登って春の風に吹かれているような心地良さがあるものでもある〕

「煕煕」とは好むところに溺れることである。「太牢を享ける」とは、その溺れることを美味に溺れることに例えている。「春、台に登る」は溺れることを限りない心地よさにをして例えている。


我独り泊まるや、それいまだ兆(きざ)さず。嬰児のいまが孩(こ)たらざるが如し。

〔自分はただ独り静なる境地に留まっている。そして動揺の気配さえ無い。それは生まれて自然のままの赤ちゃんのようであって、成長していろいろな欲望を知った子供とは違っている〕

「泊」は静かであるということである。「兆」とは芽生えているということである。「嬰」は、まさに生まれようとしている子供で、「孩」はやや成長した子供のことである。


乗り乗りたるや帰るところの無きがごとし。

〔車に乗って、乗るだけであれば帰ることができない。そのように止まる(泊まる)ことを知らなければ、自分を見失ってしまうことになる〕

車に乗って帰ってしまえば、もう車に乗る必要はない。「乗乗」とは、つまり進むようであり、退くようでもあるが、帰ることがないさまである。


衆人、皆、余るところ有り。しかるに我、独り遺(うしな)うがごとし。我、愚人の心なるや。

〔多くの人には、やり過ぎているところがある。ただ自分だけは独り失うことを気にしない。余計なものを持つことがないのである。それは或いは愚かな者の考えのようであるかもしれないが、これこそが道を知る者の考え方なのである〕

「遺」とは、忘れるということである。それぞれが慣れてよく知っていることを仕事として行うと、つまりは自ずから余裕が生まれることになる。聖人は知らないことはない。それはまた知っていることが無いということでもある。つまりそうであるから忘れることもないわけである。「愚人の心」とは、全てを知って知らないように見える聖人と似てはいるが、本当に何も知らない人の心のことである。


沌沌(とんとん)たり。

〔聖人には渾沌(こんとん)として定まったものがない。ただ自然のままに居てひとつのことに執着することはない〕

渾然としていて、あらゆることを知っているが、あたかも何も知らないような状態のことである。


俗人は、昭昭たり。我、独り昏たるがごとし。俗人は、察察たり。我、独り悶悶たる。

〔道を知らない俗人は巧みに生きようとする。しかし自分だけは独り知恵を使って生きようとは思わない。道を知らない俗人は細かなことにこだわっているが、自分だけは独り自然のままに任せている〕

「昭昭」とは、巧知のあることである。「昏」たるが如くであるとは、よく分かっていないということである。「察察」とは、ひじょうに細かなことである。「悶悶」とは、無為であることである。


忽(こつ)たるや晦(くら)きがごとし。

〔聖人は何も見ようとはしていないし、知ろうともしていないようである〕

何も分かっていないように見えるということである。


寂たるや止まるところ無きに似たり。

〔それは静寂の中にあって、常に変化をしている〕

特定のところ(地位や場所など)に安住することが無いということである。


衆人、皆、もって有り。我、独り頑として鄙(かたくな)に似たり。

〔道を知らない多くの人は皆、所有することにこだわるが。自分だけは独り頑なに余計なものを持つことを拒んでいる〕

「もって有り」とは、何かを使おうとしてとっている、ということである。「頑」「鄙」とは、使おうとしてとっておくことが無いということである。


我、独り異なるや人。しかして母を食(やしな)うを貴ぶ。

〔自分独りが多くの人とは違っている人間のようである。それは生まれた子が母親に喜びを与えることで、母親を養っていると考える逆転の発想をしているからに他ならない〕

道は万物の母である。聖人は道をして中心とする。それは嬰児の母を食べるということ、つまり聖人(嬰児)が道(母)を学ぶ(食)ということなのである。


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