第十五章【世祖 解説】

 第十五章【世祖 解説】

この章では、道を得た者は「虚をして用をなす」ことができる、ということを述べている。「古の善く士たるは」とは、聖を極めて高い精神的な境地に達している人物のことである。こうした人部が道を得ているわけで、その奥妙であることは人知を超えている。そうした境地が極まったところが「玄」である。「玄」に通じることができるが、それは人知の及ばない程の深みにある。こうした認識を得ても、それをどのように形容することができるであろうか。どのような形容も受け入れることのない認識なのである。例えば冬に川を渉ることは(冷たい水に入ることを恐れるということを例えているのであり)、それと同様に「人を見て恐れる」ということを例える場合には、周囲(四隣)を恐れるような、ということになる。「厳かで慎み深いこと」を例えるのは、客となっている時のようであるとされる。「恐れを抱く」というのは、氷が割れないかを恐れるようであるとすることができよう。それは樸(あらき)のいまだ手が加えられていないような状態である。「谷」は、よく受け入れることができる、ということが例えられるのであり、「渾然」は濁っていて中に入っている物がよく見えないような状態に例えられる。以上、七つは完璧には例えることができないものとして挙げられているのであり、言うところは明らかであろう。俗世間に居る優れた士は、世俗にまみれてはいるが、それに染まっては居ない。今の俗世間の人たちのように、世俗に埋没してはいなのである。静であれば徐々に清くなる、とされるが、それはエネルギーの枯渇した人において生ずるであろうか。深い静坐の境地に入って(定)、その性を滅する。それは今の人のように、ただ心を鎮めるだけではない。静が際まえると動が徐々に生ずる。大体において道を保つ者は、常に虚であって、満たされることを求めはしない。つまり常に根源を見て、新しいものを求めないということである。つまり千日であっても、今日一日があるだけなのである。そのように道とはおおいなるものなのである。


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