第四章【世祖 解説】

 第四章【世祖 解説】

つまり無為の道は、ただ至虚を本としているのであり、これをして人々が無為であることが適切といえる。天地は広大であるが、人々の社会も狭くはない。社会に広く無為を用いても、それが窮まることはない。物は満ちて限りがあるものであるが、道はいまだかつて満ちたこともない。物は道から生まれてはいるが、物が道そのものではない。「淵」たるが「万物の宗」に似ているとする。人であって道を有しないものはない。ただ聖人たけがよく完全に道と一体となっている。どうしてそう言えるのであろうか。その「鋭」を挫くからである。そうして「妄」に紛れることを恐れるのであり、その「紛」を解くのである。それは物にとらわれることを恐れるのである。「妄」に入らないとは、物にこだわらないことであり、こうして汚れを取り去って、光を生じさせるのである。そうして自らその光りを輝かせるのである。つまりこれが「有心」である。それがあるので一般の人とは異なるわけなのであるが、その光を和して至潔の光とならなければならない。俗塵と交じってしまうのであり、一般の人と何ら異なることがなくなる。どうして万物へのこだわりを捨てることを道とすることができるであろうか。道はそうであるからこそ完全なのである。そうであるから湛然(静かであること)として至清であり、常に存しているわけである。常に存してはいるが、人はそれを知ることがない。そうであるから或いは存しているようであるとあるのである。道は存しているが、それを得て「名」付けることなどはできない。そうであるから誰の子か知らない、とあるのである。そして、それを語ることもできない「無」なのである。そうであるから、「帝(あらゆる物)」の先にあるのに似ている、とされている。「帝」とは万物の主であり、すべてのものはここから化しているとする。万物は「帝」に遅れて生じているのである。道はまた「帝」の先にあるのであり、その先にあるものはないともいえるのである。


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