道竅談 李涵虚(160)第十八章 再び神、気、精を論ずる

 道竅談 李涵虚(160)第十八章 再び神、気、精を論ずる

禅では先天から後天へのプロセスを「静中の工夫」、後天から先天へを「動中の工夫」として、坐禅と作務をそれにあてている。また禅では「動中の工夫」の方を重視する傾向もあるようである。これは専ら坐禅をしていたエリート僧の神秀よりも、飯炊きをしていた慧能の方が高い悟りを得たとする伝承にも見ることができる。こうした中での神秀は本来の仏教の坐禅を中心とする修行を象徴するものであり、慧能はそうではない新しい修行(慧能の派からすれば本当の仏教の修行)を示すものであった。西派でも先天へのアプローチは他人との係りにおいて初めて知ることができるとするのであり、ただ一人で瞑想をしていても先天の世界に入ることはできないと教えている。「作務」のようなものを重視する感が方は中国の特徴といえるのかもしれない。

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