道竅談 李涵虚(157)第十七章 神、気、精を論ずる

 道竅談 李涵虚(157)第十七章 神、気、精を論ずる

また団陽子に「人元の煉気が天地の造化を奪う」ということに就いて聞いた。そして初めに天元、人元とはどういったものであるのかを問うたのである。

団陽子が言われた。

「わたしは汝に天の『命』はこれを『性』ということを述べた。理は気によって生まれている。これが天元である。『性』を極めればは『命』へと至る。また気は理から生まれている。これが人元である。上徳は無為であり、これは探求することのない清静なる功であり、これを天元という。下徳はこれを行って止むことのない返還の道であり、これを人元という。上徳を修する人は、天と一体であること甚だしい。そうであるから清静なる修行をすれば、必ず元気や元神は『至清』『至虚』となる。こうなると正等正覚(最高の悟り)が得られる。こうなって天元の理が究められることになる。つまり天元とは上徳を実現させることではないのである。つまり上徳はそのままで天元であり、そうであるから我に欠けているところは無いのであって、自らと天元は一体なのである。下徳の人は最も多いであろう。そうであるから先に『還』『返』の優れた教えがあるのであり、必ず陰丹と陽丹をひとつにしなければならない。そして煉って太無、太虚へと入ることで人元の道が完成する。これが人元は下徳の実際を表すものではないということである。つまり下徳は人元であり、そうであるからそれを輝かせるのである。そのために人元の術と号するものがある。上徳の本体には性と命が共に存している。下徳の妙用は性と命とを共に完全に導くところにある。そして一気を作り上げる。そうして人は元始の一気をして仙人となるのである。つまり天は陰陽五行の気を施して人を作るのであり、丹道はそれを受けて天地の造化を奪って天道と一体となるのである」

〈補注〉「天地の造化」を知るとは「天地の理」を知るということであり、これが最高の「悟り」であるとする。この「天地の理」は「性」と称され、人は生まれながらにしてこれを有している。これを上徳という。こうした「理」を動かしているのが「気」であり、これを「命」とする。「性=理」は「命=気」から生まれたものであるから、「性」を知ろうとするならば「命」を煉れば良い。練気によって「性」への悟りが得られるのである。仏器を初め多くの瞑想で感情のコントロールが重要であるとするのは「練気」によって人が本来有している上徳(性)を悟ることができるからに他ならない(これを仏教では仏性などという)。

 

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