第九十六話 絶招研究・形意拳篇(1)

 第九十六話 絶招研究・形意拳篇(1)

中国武術には「絶招」と称される技がある。絶招とは「必勝、不敗の技」を意味する。これには二つあって、個人に帰する技と、システムに帰する技とがある。「個人に帰する技」はいうならば得意技である。その人が使った場合には「絶招」となるが他の人ではそうはならない技である。これに対して「システムに帰する技」は特別な技法であり、これはそれを知っていれば知らない人に対しては必ず勝てるとされている。通常「絶招」としてイメージされるのは後者の「システムに帰する技」であろう。このような秘伝技を会得すれば絶対的な優位に立てることが夢想される。ただ実際は特別な技を知ったからといって必勝、不敗となれるわけではない。こうした「絶招」の世界は小説や映画などで楽しむことができるが、中国や欧米では「絶招」を知るという知的優位にあることをかなり重視する傾向があるようであるが、日本では鍛錬の方を重んじるので秘伝技を知っただけではそれを習得したことにはならないと考える。ただ「絶招」だけを知っても役に立たないとするわけである。宮本武蔵も最大の見せ場である佐々木小次郎との試合では二刀を使っていない。武蔵が苦労をして編み出した二刀の奥義(絶招)をして、最強の小次郎に勝つという図式は必ずしも求められていない。

 

 

当然のことに「システムに帰する技」は必勝の技であるから秘伝とされる。そしてそれは「最後の一手」などと称され、往々にして「最後の一手を留める」といわれることもある。なかなか伝授されないものといわれるわけである。それは最後の一手を教えることで師は弟子よりも優位を保つことができなくなるとされるからに他ならない。そこでこのような話が聞かれたりする。

最後の一手を知ることを熱望する高弟は師に真剣勝負を求める。最後の一手を除いては全ての技の伝授を受けているのであるから、もし師が勝って生き残ろうとするなら最後の一手を使わざるを得ない。そこで高弟は真剣勝負を求め師はそれを受けた。立ち合いの時、高弟が全ての技に習熟していることを悟った師は最後の一手を使う。それを受けて薄れ行く意識の中で、最後の一手を知った喜びに高弟の死に顔は微笑んでいるようであった・・・・。

という話になるかどうか。ただ実際には「システムに帰する技」としての絶招の存在は疑わしいものとされる。それは最後の一手の他の技についての習熟度が、一様ではないからである。30の技を習得して「30」のレベルを常に保てるわけではない。年齢や習熟度などいろいろな心身の要因によって「30」に近いこともあれば、25や20に落ちることも考えられる。ここで述べたような「試合」は30の技を会得した人物が共に「30」のレベルを常に保持していなければ成り立たない。つまり師は「30」に絶招の「1」が加わり、高弟はただ「30」をしてのみ対することになるわけである。

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