道竅談 李涵虚(144)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(144)第十六章 先天とは何か

およそ人は胞衣に包まれている時にはただ一点の元気であるに過ぎない。この時には呼吸の「気」は存していない。十か月して胎児が育つと、母体から離れることになる。そして口や鼻の「竅(あな)」が開かれる。これによって外には天地と和合をするようになる。これが呼吸の始まりとなる。この段階では思慮の「神」はこの「気」によって育てられる。「神」は「気」を仮屋として住んでその家を奪ってしまうのである。こうして「神」は永遠なる輪廻の種となる。この種は生まれる時にはその前にやって来ており、亡くなる時にはその前に体を離れてしまう。古い家を捨てて新しい家を求めて少しも休むことがない。赤子は地を踏む前から泣いている。それはおそらくはもう既に輪廻の苦しみを知っているからであろう。

〈補注〉赤ちゃんが泣くのは何故か。それは輪廻の苦しみを知っているからである、とする考え方はおもしろい。これからは埴谷雄高の『死霊』が思い出される。『死霊』では赤ちゃんは生まれた直後から「自同律の不快」を感じて泣くとする。「自同律の不快」とは自分が自分であるとの思いと現実とが一致しないことの不快である。仏教でいう「苦」に違いものとすることができるであろう。

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