道竅談 李涵虚(143)第十六章 先天とは何か

 道竅談 李涵虚(143)第十六章 先天とは何か

不「神」の「神」こそがまさに「神」なのであり、龍性とはこのことをいう。至「精」の「精」は「精」の「精」たるものであり、虎情とされるのがこれである。これが二である。真一の気が開かれるとは、了命に至ることであって、真鉛の開かれることでもある。これはつまりは龍と虎の情と性がひとつになるということなのである。これは丹母と称される。

この真一を得れば、それによって三尸や五賊はことごとく居なくなってしまう。六六(純陽)の宮の中はあまねく春を迎える。これは生を受ける時の気、精、神とまさに同じものであるが、どのように後天の気、精、神と違っているのであろうか。後天とは呼吸の「気」であり、思慮の「神」であり、交感の「精」である。これら三つの物は聞くことができるし、見ることも、イメージすることも、想像することもできるのであり、生まれてから後に用いられるものでもある。そうであるから後天と称されている。

〈補注〉老子のいう「一」は「二」を生じ、「二」は「三」を生み、「三」は万物を生じるとある「二」についてここでは龍性と虎情であるとする。そして「一」は真一の気であるという。龍性とは真神のことであり、虎情は真精のことである。これらは真一の気から生まれたとされる。神仙道の修行においては後天の精、気、神を練り(三)、先天の真神(龍性)と真精(虎情)を得る(二)。そして真一の気を開くわけである(一)。こうなると全身が陽気に満たされる。これが「六六の宮」となるとあることである。三尸は人の中に居るとされる虫のことで犯した悪行を上帝に告げて命を縮めるという。三尸、五賊はでいづれも純陽の体になると除かれるとされる。これは命を縮める陰の要素がなくなるということである。

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